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 少し気持ちが落ち着いたところで二人で小会議室を出ると、首がちぎれ飛びそうな勢いで課長が顔を向け、こちらへ駆けてきた。

「お茶も出さず、申し訳ございませんでした」と、蒼馬に頭を下げる。

 実際のところは課長が気を利かせて、邪魔しないでくれたってことなんだろう。

「いえ、こちらこそ、業務中に押しかけてしまって失礼いたしました」と、蒼馬も丁寧に頭を下げる。

「いえいえ、とんでもない。いつでもお越しください」

 男同士の顔の立て合いを放置してオフィスに戻ると、さっそく菜月がモニター越しに顔を出してきた。

「史香さん、あの人、道源寺家の人なんですか」

「うん、まあ、そうね」

「玉の輿じゃないですか。チョーうらやましいんですけど」

 山に沈む夕日のように菜月が引っ込み、モニターの向こうで呪文のように愚痴がこぼれる。

「あーあ、私もどこかにいい人いないかな。そうだ先輩、結婚式呼んでくださいね」

 と、言われても、まだ相談もしていない。

「きっと、向こうの関係者もいっぱい来ますよね」と、声が勝手にはしゃいでいる。「私も絶対どこかの御曹司つかまえちゃいますから」

 ――あれ?

「今、つきあってる人、いるんだよね」

「それはそれ、これはこれですよ、先輩。とりあえずキープしてるだけですから。電車だって快速が来たら乗り換えるのが当たり前じゃないですか」

 ハア……。

 自分のことでも精一杯なのに、後輩の恋愛なんか面倒みてられないや。

「あ、あの、それでですね、先輩」

 まだ何か?

「ちょっと、ここの書式なんですけど」

「え、ああ、はい。どうしたの?」

 なんだ、仕事のことか。

 ああ、そうだ。

 産休に入るまでに仕事を任せられるようにしないとね。

 ……ていうか。

 私、仕事続けてもいいのかな。

 結婚したらどんな生活になるのか、想像もつかない。

 蒼馬と相談しなくちゃならないことはたくさんあるけど、まだこれからだし、向こうのご両親にもご挨拶に行かなければならない。

 そもそも認めてもらえるのかすら分からないんだし。

 結婚となると、蒼馬の気持ちだけでは決められないことなのではないだろうか。

 いくら個人の意思が尊重されると言っても、家同士の関わりがないわけではない。

 なにしろ、むこうは道源寺グループの経営者だ。

 生活レベルが違いすぎる。

 そうなると、うちの両親だって、あんまり気が進まないんじゃないのかな。

「先輩どうしたんですか」

 ――え?

 モニターの横から菜月が顔をのぞかせている。

「ため息なんかついてましたよ」

「え、あ、そう?」

 この前は鼻歌、今日はため息。

 無意識に感情を垂れ流すなんて、自分らしくない。

「先輩、マリッジブルーになるのは早すぎますよ」

 空気を読めない菜月のジョークのおかげで、すうっと気持ちが静まっていく。

「くだらないこと言ってないで、仕事、仕事」

「はぁい、先輩」

 調子のいい菜月の返事は危険信号だ。

 あーあ。

 あっちも、こっちも、悩み事だらけじゃないのよ。

 妊婦を、イライラさせないでよ、もう。