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 セダンの後部座席に横たわる史香を前席に腰掛けた蒼馬が見守っている。

 ロングボディセダンの座席は、スイッチ一つで対面式のリムジン仕様に変更できる。

 シートヒーターが効いているから体が冷えることはないだろう。

 蒼馬はスマホを取り出した。

「ああ、先生、道源寺です。道に倒れていた女性を今から連れていきますので、救急の受付をお願いします」

 スピーカーから聞こえてくる困惑気味の声はベリが丘総合病院の院長だ。

『蒼馬さんのお知り合いですか』

「いえ、通りすがりです」

『症状は?』

「分かりません。交差点の角に倒れていたので佐久山と車に乗せて寝かせています。外傷はないようなので事故ではないと思います。目を閉じていますが、意識はあるようです。あ、ええと、嘔吐していますね」

 蒼馬は横向きの史香の口からこぼれた吐瀉物をハンカチで拭った。

『喉に詰まると呼吸困難になりますので、横向きにして気道を確保してください』

「はい、大丈夫です。息はしています」

『そうですか。その方の身元は分かりますか』

「ああ、社員証をぶら下げたままですね。ええと、黄瀬川史香。BCコマース社員のようです」

『分かりました。受け入れ準備をしておきますので、救急入口へ車を回してください』

「はい、お願いします」

 通話を終えたところでメッセージが光った。

《蒼ちゃん、今から会えない?》

 女優の久永里桜からだ。

 耳元でささやかれるような声が聞こえた気がした。

《無理だ》

《誰かいるの?》

《病院に向かってる》

《事故?》

《急病人》

《本当?》

 嘘じゃない、と打っているうちに返信する気が失せてスマホをしまう。

 里桜はベリが丘ノースエリアに住む証券会社社長の娘だ。

 母親が歌劇団のトップスターだった関係で、生まれる前から女優になる運命だったと公言するような自信家で、蒼馬とは幼なじみになるが、それ以上でもそれ以下でもない。

 ただ、強力なコネを持つ母親が娘の後ろ盾になっているとはいえ、それだけでのし上がれるほど芸能界は甘くない。

《衝撃スクープ!》と題した記事がネットに流れたのは先週のことだった。

 もちろん、事務所が映画の話題作りとしてあえてリークしたやらせ記事だ。

 大物俳優のスキャンダルをもみ消す代わりに、若手女優の話題を写真誌に提供するという一石二鳥の作戦だ。

 主演映画の公開に合わせて交際を匂わせるのに協力しただけなのに、里桜はこんなメッセージを毎晩送ってくるようになっていた。

 今のところ蒼馬には交際相手や婚約者はいないし、学生時代の淡い思い出に免じて暗黙の了解で話を合わせ、人目のあるBCストリートのレストランで食事も共にしたものの、これではまるで本気みたいではないか。

 約束が違うと突き放したくもなる。

 眉のあたりを指で揉んでいるとセダンが病院の敷地へ入って行った。

 史香は息をしているが、きつく目を閉じたままだ。

「もうすぐ医者に診てもらえますからね」

 声をかけても返事はない。

 ベリが丘総合病院はセレブ御用達とあってプライバシー保護が徹底している。

 病院の入口は外部からの目にさらされないように地下にあるし、あらかじめナンバーを登録された車両しか敷地内には入れない。

 救急入口でラグビー選手のような男性スタッフが三人待ち構えている。

 横付けされた車のドアを中から開けると蒼馬はそのまま外に出た。

 素人が手を貸すよりも専門家に任せた方が早い。

 実際、スタッフは横たわった史香を手際よくストレッチャーに移すと、あっという間に院内へ消えていった。

 車内に残された嘔吐物のついた蒼馬のスーツを、運転手の佐久山がビニール袋へ入れ、脱臭処理をおこなう。

「あとは私どもにお任せください」と、受付スタッフがホテルのコンシェルジュのように頭を下げた。

「一応私の名刺を置いていくから、渡しておいてください。あと、快復後に相手の許可があればお見舞いに伺いたいと伝えておいてもらえますか」

「かしこまりました」

 再びセダンに乗り込もうとすると、運転手が予備の上着を広げて待ち構えていた。

「お風邪を召しますといけませんので」

「ありがとう、佐久山」

 肌触りのいいスーツに袖を通し、後部座席に乗り込むと、運転手は軽く会釈しながらドアを閉めた。

 病院の地下からロングボディのセダンがゆっくりと姿を見せたかと思うと、エンジンをうならせることなく長い櫻坂をなめらかに駆け上がっていく。

 まもなく日付が変わろうとしていた。