〇男子寮・紅牙の部屋のリビング(朝)

瑚白と紅牙はお互い制服姿で向かい合って立っている。
恥ずかしそうに少し頬を染め躊躇っているような瑚白に対して、紅牙は狼耳を出しつつも優しく嬉しそうな表情をしている。


紅牙「おいで」


両腕を広げる紅牙。
うっとたじろぐ瑚白は、渋々とその胸に近付いた。
腕の中に納まった瑚白をギュウッと抱き締め、満足そうに彼女の髪に頬を擦り付ける紅牙。


瑚白(ううっ……仕方ないこととはいえ、やっぱり恥ずかしいよー!)


チュッと髪にキスをされ、ビクッと肩を揺らす瑚白。


瑚白(っていうか、本当にこれ抑えてるんだよね? 毎朝甘すぎて困るんだけど⁉)


紅牙の腕の中で彼に顔を見られないよううつむき真っ赤になる瑚白。
耳が赤いのを見て満足そうに微笑む紅牙。


紅牙「……瑚白」

瑚白「っ!」

瑚白(このイケボも心臓に悪いー!)


ドキドキする中、紅牙の手が瑚白の左肩に触れる。
ピクッと反応する瑚白。


瑚白(でもこれ以上ほだされちゃダメだ。今はまだ肩の傷を見られてはいないけど、いつ見られちゃうか分からないし。それに、紅牙先輩も早くちゃんとした番を見つけないと)


少し冷静さを取り戻す瑚白。


瑚白(番解消しましょうって早く言わないと。……でも、今のこの状況じゃあ言いにくいしなぁ)


髪を手で梳かれ、胸をトクトクと鳴らしながら瑚白は困り果てていた。

〇学校・教室(朝)

気力を使い果たしたように机に突っ伏す瑚白。
そのそばに立ち、紙パックの野菜ジュースを手に持ちながらからかい気味に話しかける詩乃。


詩乃「今日も朝から力尽きてるねぇ」

瑚白「あの甘さに耐えようと思うと気力がガシガシ削られるのよ……」

詩乃「もういっそ受け入れちゃえばいいんじゃない? 別に神矢先輩のこと嫌いなわけじゃないんでしょう?」


野菜ジュースをチューッと飲む詩乃。
瑚白は体を起こし唇を尖らせながら答えた。


瑚白「まあ、番として大事にされてるとは思うし……嫌いになる要素はないけど……でもあくまで番だからでしょ? 私たちはいずれ解消するつもりなんだし」

詩乃「うーん、でも神矢先輩もテキトーに選んだわけじゃないと思うな。番になって欲しいと思える相手にしかマーキングしないって満も言ってたし」

瑚白「うっ」

瑚白(まあ、気に入ったからとは言ってたもんね……)

瑚白「でもやっぱりダメだよ。紅牙先輩だってちゃんとエンゲージ成功出来るような人を番に選ばなきゃ……」

瑚白(そう、私みたいにエンゲージ失敗前提の番じゃなくて、ちゃんと紅牙先輩を好きだって言ってくれる子じゃなきゃ……)


紅牙の隣に知らない女子生徒が立っている情景を想像した瑚白。
紅牙が優しい笑みをその子に向けているのを想像し、ツキンと胸を痛める。


瑚白(ん?……今の何?)

詩乃「そう?ってことは次の満月にはエンゲージしちゃうの? あと一週間もないけど」


胸の痛みに首を傾げる瑚白に、野菜ジュースを飲み干した詩乃が質問する。


瑚白「うん、出来ればそうしたいなって思ってる」

<エンゲージは満月の夜に行われるらしい。学園の方に申請すると許可が下りて儀式を行うことが出来るんだとか>

瑚白(次の満月まであと数日。申請は前日でも大丈夫だけれど、これ以上ほだされちゃったら後が辛いからね! よし、今夜こそ伝えよう!)


両手で拳を握り、意気込む瑚白だった。


〇男子寮・紅牙の部屋のリビング(夜)

ソファーに座る紅牙の前に立ち、両手の拳を握り真っ直ぐ真剣に瑚白は決意したことを伝えた。


瑚白「やっぱりこんな不誠実な関係はお互いに良くないと思うんです。だから次の満月の夜、エンゲージして失敗しちゃいましょう!」


面食らった表情の紅牙。
気を取り直し、微笑む。


紅牙「またいきなりだね? 別にもうひと月くらいこの関係のままでもいいと思っていたんだけど?」

瑚白「まあ、あんまりすぐ番解消となれば印象は良くないですが、少なくとも目的は達成出来ているので!」


だから自分は大丈夫だと親指を立てるジェスチャーをした瑚白は、続けて立てる指を人差し指に変え、もう片方の手を腰に当てた。


瑚白「それに、紅牙先輩だって流石に本気でエンゲージ成功出来る相手を探さないとマズイんじゃないんですか?」

紅牙「……まあ、先生とかにはせっつかれてるかな?」

瑚白「やっぱり」

瑚白(私は番にしてもらったから内申点気にしなくて良くなったけど、紅牙先輩にとって今の状況は悪い方向にしか向かない。これはやっぱり次の満月には番解消しないと!)

瑚白「じゃあ尚更次の満月に――」

紅牙「まあ待ってくれ」


更に決意を固めて言葉を重ねようとした瑚白。
その言葉を遮った紅牙は少し悲しそうにも見える微笑みを浮かべた。


紅牙「しばらくこのままのつもりだったから、気持ちが追いつかないんだ」

瑚白「あ、すみません。私ばかり意気込んじゃって」

紅牙「いいよ、俺のことを考えて言ってくれてるってことは分かったから。ただ、今は保留にしておいてくれないか?」

瑚白「分かりました……」


申し訳なさそうな紅牙に、瑚白は大人しく引き下がった。

〇学校・渡り廊下(放課後)

実行委員の仕事のため会議室へ向かう途中の瑚白。
難しい顔をしながら歩いている。


瑚白(エンゲージの申請は待ってくれって言われてから数日経つけど……結局どうするんだろう? もう明日が満月なのに)

瑚白「委員会の仕事が終わったら確認しなきゃ」


そう独り言ちると、後ろから誰かに呼び掛けられる。


工藤「あ、朱河……」

瑚白「え? あ……工藤くん……」


お互い気まずそうに向かい合う。


瑚白(まともに会ったのは紅牙先輩に番にされた日以来だな。あの日は落ち込みながらいなくなっていたけれど……)

工藤「その、こないだは悪かったな……ごめん。ちゃんと謝っておきたくて」

瑚白「え⁉ あ、ううん。大丈夫だよ」


謝られると思っていなかった瑚白は慌てる。
そんな瑚白に工藤は後頭部を掻きながら更に謝って来た。


工藤「でも俺が強引な手段取ろうとしたから、朱河は異端の王子の番にさせられただろ? その、それも大丈夫なのかなって……」


しゅん、と落ち込んだ様子の工藤に瑚白は困り笑顔を浮かべる。


瑚白(わざわざ気にして謝ってくるなんて、本当は良い人なんだな。あのときはちょっと気が昂り過ぎただけで)

瑚白「大丈夫だよ。紅牙先輩は優しいから」

工藤「そうか? まあ、あの先輩番にした女には手を出さないって聞くしな」

瑚白「え? 手を出さない?」

工藤「ああ、せいぜいが手を繋ぐくらいだって聞いたぜ?」

瑚白(え? だって、私には抱きついたりとかしてるのに……)


困惑の表情をする瑚白に、工藤は不審を覚えたのか眉間にしわを寄せる。


工藤「おい、まさかそれ以上のことされて……。やっぱり嫌なことされてるんじゃないのか⁉」

瑚白「え⁉ いや、ホント大丈夫だから」


気色ばむ工藤を落ち着かせるように、瑚白は慌てて笑顔を見せた。


〇学校・渡り廊下に差し掛かる廊下(放課後)

実行委員の仕事のため会議室へ向かう途中の紅牙は、物思いに耽るように一人歩いていた。


紅牙(……困ったな。満月は明日だっていうのに、決められない)

<いつもなら迷うことなんてない、番がエンゲージしようと言ったらすぐに受け入れてきた。……そして、わざと失敗してお互いに傷つかない様に番関係の解消をしてきたんだ>

紅牙「何が違うんだろうな……?」


床に視線を落とし今までを思い返す紅牙。


紅牙(瑚白の前の番だった一年生は特殊だけれど……それよりも前の子たちにはもっと自制出来ていたし、番関係の解消も躊躇うことなんてなかった)

<そもそも、同じ部屋で同居していても触れることすらなかったのに……どうして瑚白にはハグしようなんて言ってしまったのか……>

紅牙(今までの子と瑚白の違いは……俺のことを好きだと言わないところ、かな?)

<いつもは告白されて、この子ならエンゲージ成功まで行けるかもしれないと思った子を番にしてた。でも、どうしても一歩を踏み出せない俺は、結局一度も彼女たちに触れることなく番関係を解消していたんだ>

紅牙(二度と、あんな思いをしたくなくて……)


脳裏にフラッシュバックする記憶。
怯えた目を紅牙に向ける、愛していたはずの女の姿。


紅牙「くっ」


記憶を振り払うように頭を振る。


紅牙(そうだ……どうしたってあの記憶が()ぎるから、今までは触れることすら出来なかったのに……)

紅牙「なのに、瑚白にだけは違う……」

紅牙(逃げられたからつい追いかけてしまったってのもあると思う……でも、女に触れたいと思ったのすら久しぶりだった)


<俺の方から触れたいと思ったからか? フラッシュバックもしなかった>
<それでも瑚白が嫌がれば離れたけれど……彼女は喜びはしなくとも嫌がっている様子もなくて……>


恥ずかしそうに耳を真っ赤にしている瑚白を思い出す。
口元を手で覆い、こみ上げるものを抑えようとする紅牙。


紅牙(ヤバイな……もしかして俺は本当に瑚白のことを……)


渡り廊下に差し掛かり、ふと顔を上げた紅牙は瑚白の姿を見つける。
工藤と話しているのを見て足を止めた。


紅牙(あれは……確かこの間瑚白を無理矢理番にしようとしていたやつじゃあ……絡まれているのか?)


助けるべきかと足を踏み出そうとしたところ、瑚白が工藤に笑顔を向けたのが見えた。


紅牙「っ!」


思わず駆け出す紅牙。


紅牙(何で、そんな奴に!)


紅牙に気付く瑚白。


瑚白「え? あ、紅牙せん――」


紅牙は無言で瑚白の腕を掴みそのまま足を進めた。


瑚白「いつっ、紅牙先輩⁉」

工藤「え? おい⁉」


工藤が呼び止めるが、紅牙は気にせず瑚白を連れてその場を去る。
途中の空き教室に入り、瑚白の腕を離した。


瑚白「ちょっと、どうしたんですか⁉」


少し怒ったように非難する瑚白の顔を紅牙は挟み込むように掴んだ。
頭には狼耳が出ていて、瑚白を覗き込む顔は嫉妬に歪んでいる。


紅牙「あいつ、この間君を無理矢理番にしようとしていたやつだろ? 何笑いかけてんの?」

瑚白「え? 紅牙、先輩?」

紅牙「俺に番解消しようって言ったのは、本当はあいつとが良かったから?」

瑚白「何言って――」

紅牙「でも無理だよ。俺と解消したら君はもう他の人狼の番にはになれない。……他の男になんて、渡すものか」

瑚白「っ⁉」


噛みつくようなキスに、瑚白は目を見開いたままだ。
一度離れ、紅牙は怖いほど真剣な目で瑚白を見つめ言葉を続ける。


紅牙「明日の満月、エンゲージはしない。番解消なんてしてやらない」

瑚白「こ、うが、せんぱい? んっ!」


僅かに怯えを見せる瑚白。
でも紅牙は耐え切れない様子でまた彼女の口を塞いだ。


瑚白「んっ、まっ……て、あっ」


舌が入り込み、深くなるキスに瑚白は翻弄された。
紅牙の袖を掴むことしか出来ない。


紅牙「っ……瑚白……!」

紅牙(ああ、ダメだ……自制が効かない。もう、抑えることが出来ない……瑚白を手放したくない)


瑚白からの強い抵抗がないのを良いことに、紅牙はそのまましばらく欲の赴くまま彼女の唇を味わった。


【四話 番とエンゲージ END】