屋敷に帰宅した兄妹は荷物を女中に預け、上階へ向かった。
 幸枝は兄を連れたまま部屋に押し入り、扉をきっちりと閉める。
 「おい、何だよ」
 「さっきの話の続きよ」
 病室で浮かべたのと全く同じ表情をした幸枝は、兄とベッドで隣り合わせに座ると間髪入れず話し始めた。
 「まず、お兄さまには手紙を書いていただくわ……まあ、仕事場所を変えるという話だけ書いてくれればそれで十分だわ」
 「ああ、分かった……今からでも書こう」
 兄はベッドを立って机に向かい、五分ほどで書状を書き終えた。
 「よし、これで良いかな。それにしても、お前がこれを渡しに行ったらまずいんじゃないのか。相手は陸軍だよ」
 心配そうな目を向ける兄を見て、幸枝は高らかに笑う。
 「あはは、お兄さま、そんなこと全く気にする必要ないわよ。私、全く別の人間を演じるわ。役者みたいでしょう?」
 「演じるって……どうやって?」
 一聞(いちぶん)すると馬鹿げたような突飛な妹の話も蔑むことなく真剣に聞いてくれるのが、この兄の長所の一つである。
 「浅草のレヴュー劇場の一つに、座長と知り合いの劇団があるの。その劇場はもう上演数を減らして営業している、だから其処に幾らか払う代わりに衣裳や化粧品を借りるのよ……目指すは田原衣子(たはらきぬこ)よ、私とは正反対の女性であれば勘付かれにくいと思うの」
 田原衣子とは日本映画の初期から活躍し、日本人的美貌と指の先まで整った作法で人気を得ながら映画界を牽引した一世一代の大女優である。
 「そんなにする必要があるのかい」