頭を上げた女中はひとまず足元のおもちゃを片付けて立ち上がった。
 「奥様を探しに参ります」
 「いや」
 父はそれを制止する。
 「彼女も時には家から離れたいだろう、今日のところはそっとしておいてやろう。今晩までに帰って来なければ警察に届を出す。ひとまずこの部屋を片付けてくれ」
 「かしこまりました」
 再び先程の部屋に戻った父は、数分前まで座っていた椅子に座り直す。
 『私は昭二の母親です!』
 キンキンとした声が頭の中で響き続ける。
 この言葉が意味するところは実に多い。
 自分はあくまで昭二の母親であって義雄や幸枝には構っていられないと、血縁がなければそれは他者の子に過ぎないと、真っ向から継母としての役割を否定したのである。
 他所の家の子を自分の子と同じように扱うことができない、自分の子供を育てるにあたり苦労したならば尚更──そう思う彼であったが、彼女がこの家に来ていなければ、今頃あの親子はどうなっていただろうか。
 戦争に突き進み経済が圧迫されているこの世間で十分に越した育児ができていることには、少なからず伊坂家の持つ資産や伊坂工業が創り出している金銭が関係している筈だ。
 恩義として家に協力することは道理ではないだろうか。
 それに、あのような態度では当然大企業の夫人は務まらない。事情があるとはいえども冷静に話が出来ないというだけで、夫人に相応しいとは言い難いのだ。
 父はこの後も何度か妻に同様の話をしたが、成り行きは何時も同じであった。
 それから父は妻に構うことを辞め、時は流れて義雄はおろか、幸枝までもが会社で働くようになっていた。
 特に母親が必要だと思われた幸枝は女中に助けられながら自立し、今では娘として夫人の役割をこなしている。