幸枝は毎朝六時半になると目が覚める。
 (朝ね……)
 部屋の外は明るく、夜の気怠さが徐々に去っていこうとしている。
 いつものようにツーピースに着替えた幸枝は階段を降りた。
 「御早う御座います」
 「お早う」
 食堂を覗くと、父は今日も新聞を広げて難しい顔をしている。
 「お兄さまもお早う」
 「お早う、昨日はまた浅草か?」
 「ええ」
 「あまり帰りが遅くならないようにな」
 兄はネクタイを締めながら食卓に着こうとしている。幸枝は炊事場へ向かった。
 「お継母(かあ)様、お早う御座います。昭二も、お早う」
 継母と弟の昭二は日夜共に過ごしている。毎朝女中が食事を用意するのを二人が見ているのはとうに見慣れた光景である。
 二人を除いたこの家の誰もが、妻あるいは継母は昭二に対してあまりにも過保護でありながら社交性は寸分たりとも持ち合わせておらず、伊坂家の妻としての役割と果たしていないと感じている。
 しかし彼女が子を産んで間も無く亭主を失った女であり、また昭二が彼女の子であることを知っている三人は敢えて意見しない。
 幸枝らの実母は、奔放な男女関係の中で道理を押し退けて父を捨て他の男の元へと消えた。幸枝は当時3歳ほどであったが、実母(はは)はそれから一度も姿を見せていない。
 一方の父は妻への愛情を裏切られた悔しさと悲しさもあったが、何より子供らの成長のためには母が必要だと考えていた。偶然にも親しい取引先に嫁入りした女性──現在の妻が未亡人になったと聞き不憫に思い、あるいは頼みを断ることができず再婚した格好である。