そして女はゆっくりと話し始めた。
 「ねえ……あなた確か、志津さんとおっしゃるのよね。御父様から伺ったわ……」
 志津は父がどのような話をしたのかは知らない(てい)で、また女の口調からそれが良い話ではないことを悟ったという顔を向ける。
 「うちの父ときたら、時々変な話をするんです。ご迷惑をお掛けしました」
 口の端を上げただけの笑みは、自らの筋肉の動きで分かるように、不気味である。
 そして彼女は客人に背を向けて野菜を切り始めたが、女の話は続く。
 「ねえ、志津さん。私も同じよ……厳密には違うけれど。私も、幼い時に母が家を出て、それからは父と女中に育てられたの。志津さんとは事情が違うけれど、分かる話だわ」
 志津は同情を向けられても何とも思わなくなっていた。生まれてからの二十余年、ずっと同情されてきて育ったからであろう。
 しかし、他人の人生と自らのそれを対比されるのは、どうも良い気持ではない。
 (その事情とやらは、全く私のとは違うわよ…だって伊坂さん、あなたは母の存在を知っているじゃありませんか)
 包丁の(まないた)に当たる音が止まる。
 女は追い討ちをかけるように話す。背中が一気にぞわりとするような声である。
 「辛いことがあっても言えないでしょう、病院であんなに気丈に振舞っていらっしゃるんだもの。あなたが私と時を共にするのも今日限り、話したいことがあれば吐き出したほうが心が軽くなるわよ」
 (良かれと思ってのことなのだろうけれど……お節介よ)
 志津は包丁を置き、
 「有難うございます。さあ、もう間も無く御飯が出来ますから、向こうでお待ちになっていてください」
 と女を居間へ促した。