浮き足立つような忙しさに負けじと幸枝がひたすらに仕事を進めている間に、帝国を囲む情勢も目まぐるしい勢いで変容していた。一進一退を繰り返していた戦況であったが、南方のある島の上空で繰り広げられた空戦の末元帥が死亡し、北米の島を巡る戦いで初めて「玉砕」という言葉が世に知られるという由々しき出来事が次々に起きていたのである。
 この状況においては、幸枝は仕事で精一杯で、海軍の「担当者」である長津も時事刻々と悪化する戦況に懸念を抱き続けていることもあって、指定された場所に五分早く着く二人は、
 「やあ」
 「どうも」
 と挨拶を交わしつつ封筒の受渡までを済ませてその場を去るのみである。二人の接触する時間は、実に十秒に満たなかった。
 春の陽気も薄れ、秋口の、晩夏のほのかな湿気を含んだ寒さにも似た雨の多い日々の中で、帝都は文字通りの「都」になり、市井にはその雨を一時的に吹き飛ばすような心意気が満ちている。
 やっとの思いで相次ぐ増産に応え操業を続けてきた伊坂工業も漸く落ち着きを見せ、幸枝の心には少しばかり、三ヶ月ぶりと思われる余裕が生まれてきた。
 そんな幸枝のもとに、帝大の彼がやってきた。仕事を終え会社を出たときのことである。
 向こう側から早足でこちらへ進んでくる人影に見覚えがあって、それを眺めながらゆっくりと歩いていると、
 (ああ、成田さんだわ)
 そう思ったところで、相手も歩みを止めた。今にも海に返ろうとする橙色の光線が街全体を照らす。
 清士はその光を遮るように幸枝のもとへ駆け寄った。その表情は宵闇に煌めく水面よりも眩しい笑顔である。
 「やあ」
 「今度はいやに楽しそうね」