幸枝は電灯の下の学生を見遣って通り過ぎようとしたが、朝よりも人影も疎になった昼下がりでは人波に紛れ込むこともできず、
 「伊坂さん」
 彼は小綺麗な所作で歩き去ろうとする少女を呼び止めた。
 「お兄さまについて行って頂戴」
 と弟を行かせた幸枝は、かわいげのない目線を向けながら歩み寄る。
 「また逃げ出して御出(おい)で?」
 藍鉄の外套に身を包んだ彼の表情は、明らかに煩っていた。
 「君を待っていた」
 長躯(《ちょうく)の青年にひしと抱き付かれたので、幸枝もさすがに動揺して、
 「ちょっと、誰かに見られたらどうするのよ。離して頂戴」
 と半ば顔の埋まったまま声を放ったが、抱擁は更にきつくなった。
 「僕には伊坂さんが居てくれないと駄目だ。君が居なくなった途端、僕は完全に腑抜けてしまった」
 耳元に迫る荒い息の混じった声は清士のくらりとした切迫の念の現れである。
 自らを包囲する腕を無理に引き剥がした幸枝は、
 「いきなり取り付いてはしたない。それに、突然訳の分からないことを仰って……」
 と軽く叱責したが、ため息を吐いて、
 「話を聞くだけならいいわよ、待ってて」
 とだけ言い残して、小走りで数十歩先を歩く父の元へ向かう。
 知人に偶然会ったのでお茶でもしてから帰るとことわった幸枝の視線の先にある不安に駆られた青年は、二枚目俳優さながらの頼りない人物に見えてならなかった。
 「御家族は何方へ?」
 幸枝は俯いた清士の腕に手を当て、ゆっくりと歩き出す。
 「……もう帰ったよ。大学での友人を見かけたんでそれに会うと言った」