ああ、とも、うん、とも取れない声を出した清士も同じ方角を向いている。
 「成田さんもいらしてたのね」
 彼の両親から聞いた話で成田家の令息もここを訪れていることは知っていたが、他に特別の話題もなかった。
 「親に連れられて来ただけだよ。君もかい」
 幸枝の隣に立った清士の目には些か疲れが現れている。
 口元を覆った幸枝はこう返答する。
 「私も望んで此処に来た訳じゃないのよ。正直、戦争画は好きになれないわ」
 「じゃあどんな絵が好きなんだい」
 不意に二人の目が合う。
 「さあ……ルノアールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』なんかは好きよ」
 正面を向き直した幸枝は続けた。
 「成田さんは、どんな芸術がお好き?」
 「後期印象派だな、セザンヌはひときわ良いね」
 申し合わせたような短い会話の後には決まって居心地の悪さが残る。
 「……抜け出さないかい、二人で」
 幸枝はそれまでの緊張が解けたかのように晴れやかに笑った。
 「ご冗談を!抜け出すなんて、いけないわ」
 清士は張り詰めた表情で、幸枝の強張った手に自らの掌を重ねる。
 「ありきたりな芸術を眺めるのも、毎度の挨拶も終いだ。僕と一緒に此処を出よう」
 身を翻した幸枝は軽やかに、
 「私は夫人も同然の立場よ、無責任なことは出来ないわ。貴方だって家督なんだからおわかりでしょう?」
 と手を繋いで人混みの中を進む。手を引かれて後に続く学生の表情は渋い。
 展示室に戻ると同時に、幸枝は堅く繋いでいた手を離した。
 くりくりとした目の端はきりりとしていながらも立ち居振る舞いは優雅そのもので、黄金色の額縁に入った巨大なカンバスの所狭しく並んだ部屋の中で、どの芸術作品よりも輝いている。