何一つ表情の動かない長津であるが、幸枝を再び泣かせてしまったのかと心の内では狼狽(ろうばい)しながらも、引責を決め込んだ頭で彼女の意味するところを汲み取ろうとした。
 「長津さんがいいんです……長津さんでなくちゃ、嫌なんです」
 涙の滲んだ目が、幼年の気儘(きまま)な願いを訴えているように見えた。
 自己(おのれ)がこれほどに切望されたことはあっただろうか。
 何人でも代わりの効く水兵や士官として生きてきて、こんなに一人の人間に自己の存在を懇願されたことはあっただろうか。
 「私も度を過ぎた発言をしてしまいました、思わず猜疑(さいぎ)に駆られてしまい……」
 幸枝の小さな手の先が拳に触れる。
 (「君であれば伊坂工業との信頼を保持しながら取引を続けることができるだろう」──確か主計中佐はこんなことも言っていたか)
 間違いを起こさないだとか、失礼のないようにだとか、そういった話以前の問題である。
 負けじ魂──いくら困難を極めたとしても、最後迄貫徹することが重要であり、この任務は文字通りの無期限、戦争が終る迄続く。
 「……どうか御許しください」
 幸枝の声は打ち震えている。
 長津は左腿に置いていた手を幸枝の肩に添えた。
 「(ゆる)しを乞うべきは私です」
 涙ながらに上を向いた幸枝の目には、海軍士官の真摯な表情が映っていた。
 「では、私は貴方を許しますから、長津さんは私を許してくださいますね」
 「至極当然です。これからも共にこの任務を続けてくださいますか」
 幸枝は目頭を拭い、大きく頷く。
 「はい、きっと」
 互いに手を取った二人の歩く影は、以前よりもどこか親しく見えた。