(この人もまた男になろうとしているわけね、大学に入って考えが大人になったのかしら)
 いつもの笑みを浮かべる幸枝の顔を見て、この日彼は初めて笑顔で返した。
 「その大胆な笑顔が好きだ」
 幸枝は何も言わなかったが、彼女の紅い頬が全てを語っている。
 清士は今まで幸枝に見せなかったような真剣な目つきで彼女を見る。
 はじめは謎そのものであると思われたこの女が、いつしか愛おしく感じるようにさえなっていた。
 伊坂工業という一大企業の令嬢で、一見楽観的に見えるがその奥には確実に思慮深さがあり、見かけ以上に多くのことを考えている。苦労をしてきただけに、人の心のよく分かる優しい人物だ。
 彼女の喜怒哀楽は明確なように見えるが、時に自身の感情を隠すべく相手を惑わすような行動を取る。これが「謎」の原因である。
 かつて不透明だと思われた伊坂幸枝という人物像は、一年弱の時を経て(ようや)くその輪郭を露わにした。
 穴が開くほどに見つめられている幸枝は、どうして良いものかもどかしさを覚えている。
 自らがかつて清士に対し意図して魅惑的な視線を向けたとき、彼も同じような気分であったのだろうか。
 挑戦的な態度を見せていた自分自身が、どうも萎縮してしまう。彼の愚直なほどに真っ直ぐな眼差しが当たると調子が出ないのだ。
 幸枝はテーブルを離れ、照り付ける陽光のきらめく磨りガラスの窓辺に腰を下ろす。
 柔らかなソファーは座り仕事で硬直した身体を優しく包み込んだ。
 窓の向こうからは自動車の音や人々が話しながら通り過ぎてゆく音と、囁くように微かな蝉の声が聴こえる。