成年が18歳に引き下げられた年、(ちまた)で「自由には責任が伴う」という言葉をよく目にしなかっただろうか。
 成人になれば親の承認が無くとも契約を締結できる自由が手に入るが、その契約内容をきちんと果たさなければならない責任が生じる。
 自由と責任というものはまるで天秤(てんびん)に掛けられた(おもり)のようなものだが、この天秤の使い方は人それぞれであろう。
 天秤の対象が契約であれば、自由に重きを置く人は次々にあらゆる契約をするだろうし、責任に重きを置く人はきっとひとつの契約についてとても慎重に考えるはずだ。
 こういった人たちが使う天秤はすぐに釣り合うかどちらかに傾いてピタッと止まるが、世の中にはいつまでも天秤が釣り合わずフラフラとしている人がいる。
 彼らの天秤が釣り合わないのは、まさに天秤の持ち主がああでもないこうでもないと錘を入れ替え続けているからだ。
 私も数年前までは天秤のフラフラする人間、つまりは優柔不断であったし、未だにその名残(なごり)はある。
 優柔不断というものはどこか精神の安定を邪魔するようで、まず物事を決めるまでに悩み続けるものの、思案を巡らせてようやく決断したと思ったら今度はその決断が良いものであったのか、もし違う選択をしていたらと気を揉んでしまうのがタチの悪いところである。
 何か大きな物事を決めるときに悩み通すのは自然だと思うが、優柔不断の場合、昼にうどんを食べるか蕎麦を食べるかで悩み過ごしどちらも食べ損ねるといったことが起きるのであり、これでは二兎(にと)を追う者一兎(いっと)を得ずどころかどちらの(うさぎ)を得るか迷って一兎も得ていないことになる。