マスクをした猫

第四章 大みそか

天気……晩冬の冷たい風が吹きすさび、こぬか雨も静かに降っている。冬枯れで活気がない木の枝に、細かな雨粒がついていて、きらきらと光っている。日が西に傾くと、雨や風はやんで、空にうっすらとした夕焼けが出ていた。

今日は大みそか。毎年、大みそかには、ぼくは妻猫といっしょにうちでゆっくり過ごして、一年を振り返りながら、新しい年を迎えている。今日、朝、目が覚めると、老いらくさんのことをふっと思い出した。妻猫といっしょに朝ご飯を食べたあと、
(老いらくさんにも、ご飯を少し持っていってあげよう)
と思った。老いらくさんは食べ物を、公園のなかにあるゴミ箱に捨ててあるものの中から拾って食べているが、公園が閉鎖されて、人が公園に来なくなったので、食べるものに困っているかもしれないと思ったからだ。ぼくのうちにあるキャットフードや、ビスケットや、缶詰や、おやつは、もうほとんど底を突きかけていたが、干し肉が少し残っていたので、干し肉を袋に入れて、首にかけて、老いらくさんが住んでいる梅園へ行った。梅園に着くとロウバイの花は風に吹き飛ばされて、はらはらと散っていて、地面の上に幾重にも重なっていた。ぼくはちょっと戯れに寝転んでロウバイの花びらのなかに体を横たえてみた。ふかふかとして、とても気持ちがよかった。花のにおいもよかった。ぼくには老いらくさんの気持ちが、今、よく分かった。確かに、これだと、よく眠れそうな気がする。ぼくはそう思った。
「老いらくさん、どこにいますか。干し肉を持ってきましたよ」
ぼくが呼びかけると、近くの地面の下から、ごそごそと音がして老いらくさんが出てきた。
「そうかい、ありがとう。この非常時に、干し肉がいただけるとは、思ってもいなかったよ。うれしいねえ」
老いらくさんは、ぼくに感謝した。
ぼくは首にかけて持ってきた干し肉の入った袋を石の上に置いた。老いらくさんは、手を合わせてから
「ありがとう。恩に着るよ」
と言った。
老いらくさんは、そのあと、姿をちょっと消してから、どこからかスケートボードを、がらがらと引いてきた。スケートボードの上には、格子模様のテーブルクロスも載っていた。
「これは、わしが大切にしているボードだ。食べ物を運んだり、食卓としても使っている。この上にテーブルクロスを敷いて行儀よく食べている」
老いらくさんがそう言った。
老いらくさんは食事のマナーをわきまえているので、ご飯を食べるときには、けっして無作法な食べ方はしない。
「じゃあ、さっそく、いただくことにするよ。ありがとう」
老いらくさんは、ぼくに感謝の言葉をもう一度言ってから、干し肉を食べ始めた。
老いらくさんは、食通なので、毎朝、違ったものを食べる。揚げパンを食べるときもあれば、サンドイッチや、中国風ハンバーガー(肉まん)を食べるときもある。でもここ数日は何を食べていたか、ぼくは知らない。もしかしたら食べるのが見つけられなくて、何も食べないで、寝たり起きたりしていただけかもしれない。
老いらくさんは、ぼくが持ってきた干し肉を全部たいらげると、満足そうな顔をしていた。
「笑い猫、今日は、何か予定があるか」
老いらくさんが聞いた。
祝祭日が近づくと、ぼくはいつもの時以上に、人に思いをはせる。特に心に強く思うのは杜真子のことだ。(会いに行きたい)と、いつも思っている。でも気持ちをずっと抑えている。杜真子のお母さんがぼくを好きじゃないからだ。ぼくは杜真子のお母さんから嫌われたので、うちを追い出されていた。そのことを思うと、杜真子のうちへは行きにくいところがある。
「馬小跳のうちへ行こうと思っている」
ぼくはそう答えた。馬小跳のお母さんはとても優しいからだ。
「杜真子のうちにも行こうよ。杜真子にも会いたいのだろう」
老いらくさんがそう言った。老いらくさんには、ぼくの心のなかの思いが見通せていたようだ。
「まず杜真子のうちへ行って、それから馬小跳のうちへ行こうよ」
老いらくさんが、そう言った。
「杜真子のお母さんから追い出されたら、逃げればいいじゃないか」
「そうだね。じゃあ、杜真子のうちにも行ってみようか」
ぼくはそう答えた。杜真子のお母さんは、老いらくさんのことも、ぼく以上に嫌っている。ネズミのにおいがするからだ。
ぼくは老いらくさんのにおいを嗅いだ。幸い、老いらくさんの体からはネズミのにおいはしなくて、ロウバイの花のにおいがしていた。花のなかで寝ていたからだろう。
(そうだ、杜真子と馬小跳のうちへ、春節のプレゼントを持っていこう)
ぼくはふっと、そう思った。
(春節を祝うのにふさわしいプレゼントをあげたら、喜んでもらえるかもしれない)
ぼくはそう思ったので、
(何がいいかなあ……)
と思って、しばらく考えていた。
(そうだ、ロウバイの花をあげよう)
ぼくはそう思った。老いらくさんに話すと
「うん、それはいいな」
と言って、ぼくのアイデアに賛成してくれた。
ロウバイの花は、昨夜の強い風に打たれて、花首全体が吹きちぎられて、そのまま地面に落ちているものがいくつもあった。ぼくと老いらくさんは、それらの花首を拾い上げて、二つの袋に詰めてからスケートボードに載せた。それからまもなく、ぼくと老いらくさんはスケートボードを引きながら、翠湖公園を出て、町のなかに入っていった。
町のなかはとても、ひっそりとしていて、猫の子一匹、人の姿が見当たらなかった。春節が、すぐ目の前まで来ているというのに、華やかな雰囲気はまったくなくて、町全体が、しょうじょうとしていた。疫病が起きる前に掛けられていた赤い提灯が雨風に打たれて虚しげに揺れていて、わびしさや物悲しさが、いっそう、ぼくの心に染みていった。
杜真子の家がある住宅区の出入り口の門も閉鎖されていた。ぼくと老いらくさんは門の下をくぐって、なかに入っていった。ぼくはマンションの外壁を窓伝いにはいあがって、杜真子の家の窓の外まで行くことにした。
「わしは下で待っているから」
老いらくさんがそう言った。
「スケートボードが盗まれたら困るからな」
老いらくさんはそう言って、スケートボードをじっと見ていた。老いらくさんにとって、スケートボードは長年大切にしてきた宝物なので、スケートボードのそばから一時でも離れるのは気が進まないようだった。スケートボードはテーブルクロスを敷いたら、ご飯を食べるときのテーブル替わりにもなるので、老いらくさんにとって、一石二鳥とも言える、かけがえのない大切なものだった。ぼくはロウバイの花が入った袋の一つを首にかけてから、落ちないように気をつけながら、窓伝いに登っていった。杜真子の家の窓にはピンク色をしたカーテンが掛けられているので、それを目指して、ゆっくりと登っていって、無事、そこまで登りつくことができた。杜真子の部屋は窓際にあって、カーテン越しに、なかをのぞき込むと、杜真子は今、ちょうど机に座って宿題をしていた。ぼくは爪でガラス窓をこつこつと叩いた。杜真子がはっとして、顔をあげて窓の外を見て、ぼくに気がついた。びっくりしたような顔をしてから、窓を開けてぼくをすぐになかに入れてくれた。
「笑い猫、よく来てくれたわねえ、会いたかったわ」
杜真子はぼくを大事そうに抱えると、机のうえに降ろした。それから部屋の入り口のドアを閉めてから鍵をかけた。杜真子は机の上に両手を置いて、机にかぶさるようにして、ぼくの顔の前に自分の顔を持ってきて、ぼくと目と目を合わせた。
「お前も私のことを思ってくれていたのね」
ぼくはにっこりうなずいた。
ぼくは顔をさらに杜真子に近づけた。杜真子がぼくの顔に軽くほおずりをしてくれた。ぼくはうれしくてたまらなかった。ぼくはそのあと、前足を胸の前で合わせてから三回頭をさげてお辞儀をした。
「大みそかのあいさつだね。ありがとう」
杜真子がぼくの頭を軽くなでてくれた。ぼくはそれから首にさげて持ってきた袋を机のうえに置いた。
「あら、何かしら。わざわざ気をつかって、春節を迎えるためのプレゼントまで持ってきてくれたのね。なんてお利口さんなんでしょう、お前は」
杜真子がもう一度、ぼくの頭を軽くなでてくれた。
「開けてもいい」
ぼくは、にっこりうなずいた。
「わあ、きれい。なんてきれいなロウバイの花なんでしょう……」
袋を開けたとたんに、杜真子はうっとりとした顔をして、花に魅入っていた。きらきらと金色に輝いているロウバイの花は気品があって美しさにあふれていた。
「かおりもいいわ……」
杜真子は鼻を近づけて、花のにおいをかいでいた。
(よかった、気に入ってくれて)
ぼくはそう思って、うれしくなった。
杜真子は机の引き出しのなかから、ハート型をしたきれいな箱を取り出して、ぼくが持ってきたロウバイの花を、そのなかに入れた。箱のなかから、かぐわしいにおいが、あふれ出て、部屋いっぱいに花の甘いかおりがただよっていた。
「ねぇ、笑い猫、最近、何か起きたことに気がついているでしょう」
杜真子がそう聞いた。ぼくはうなずいた。
「知りたかったら、話してあげるわ」
杜真子がそう言ったので、ぼくは再びうなずいた。
杜真子とぼくは、お互いに深く信じ合っているので、杜真子の言うことは、ぼくにはほとんど分かる。杜真子が説明を始めた。
「『新型コロナウイルス』という病原菌が発生したの。発生源が何で、どこから発生してきたのか、今のところまだはっきりとは分かっていないの。この国のW市で多くの人が感染したし、この町でも感染している人が出始めたの。『新型コロナウイルス』は感染力がとても強くて、今のところ、このウイルスに対処するための唯一の方法は隔離することしかないの。そのために私たちは今は外になるべく出ないで、家のなかでじっとしているよりほかないの。分かりますか」
ぼくはうなずいた。杜真子の説明を聞いて、老いらくさんが言ったことと、ほとんど同じだと思った。老いらくさんは今度の疫病をもたらした元凶が『新型コロナウイルス』ということはまだ知らなかったようだが、それ以外の説明は、杜真子の説明とほぼ同じだったからだ。そのことを知って、ぼくはあらためて老いらくさんの博学ぶりに感心していた。
杜真子はさらに話を続けた。
「これまで毎年、大みそかには、うちの家族と、馬小跳の家族と、丁克おじさんはみな、故郷に帰って、おじいちゃんや、おばあちゃんの家で、いっしょに年越し料理を食べたり、一晩寝ないで新しい年を迎えたりしていたわ。それが今年はできなくなったの。家から出ることができなくなったから、ここでじっとしているよりほかないの……。それだけじゃないわ。お父さんは今、うちにいないの。お父さんはウイルスやワクチンを研究している専門家なので、今は疫病の感染状況が最も深刻な事態となっているW市に行って、感染拡大防止のために尽力しているの……」
杜真子の顔が曇っていた。杜真子の話を聞いて、ぼくも気持ちが沈んだ。
それからまもなく、杜真子のお母さんが部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「杜真子、いる。お父さんがあなたと話したいって」
ドアの向こうから、お母さんの声が聞こえてきた。杜真子は、ぼくを急いで抱きかかえると、カーテンの後ろに隠して、姿が見えないようにした。
杜真子が部屋の鍵を開けると、杜真子のお母さんがスマートフォンを持って部屋に入ってきた。
「さあ早く、お父さんと話しなさいよ」
杜真子のお母さんがそう言って、杜真子にスマートフォンを渡した。
スマートフォンの画面に、白い防護服を身にまとって、防護眼鏡と防護マスクをつけた人の姿が映っていた。杜真子に向かって手を振っていたので、杜真子のお父さんだと思うが、姿があまりよく見えなかったので、ぼくにははっきりとは認識できないほどだった。
杜真子はまだ何も話しかけないうちから、もう目に涙を浮かべていた。
「さあ、泣かないで早くお父さんと話しなさいよ」
お母さんにうながされて、杜真子は、涙をハンカチで拭いながら、ぽつぽつと話を始めた。
「お父さん、元気ですか。お母さんも私も、お父さんのことを、いつも心配しているわ……。元気でいてね。私もお母さんも、つつがなく暮らしているわ。安心してね……」
杜真子は涙で、声を詰まらせながら、お父さんに、切々と訴えるように話していた。
杜真子がお父さんとの通話を終えると、杜真子のお母さんはスマートフォンを持って、杜真子の部屋から出ていった。
ぼくはカーテンの後ろから出てきて、机のうえに飛びのった。杜真子が心のうちをぼくに話してくれたり、ぼくとしばらく遊んだりしてくれたので、ぼくは時間がたつのも忘れるくらいに、楽しいひとときを過ごしていた。それからまもなく、ぼくは杜真子といとまごいをすることにした。ぼくとの別れを杜真子は名残惜しそうにしていた。ぼくも名残惜しかった。
「ちょっと待っていてね」
杜真子はそう言うと、部屋の隅からキャットフードの袋を持ってきた。
「これは春節を迎えるためのプレゼントよ。本当なら、私がこの袋を持って、翠湖公園に行かなければならないのだけど、今は住宅区の出入り口の門に鍵がかけられていて、外に出ることができないの。ごめんね」
申し訳なさそうな声で、杜真子がぼくに、わびていた。
「これから、このキャットフードをかごに入れて、縄で縛って窓からおろしていくことにするわ。あとはどうやって翠湖公園まで持っていくか、自分で考えてね。お前は頭がいいから、きっといい方法を見つけることができると思うわ」
杜真子がそう言った。
(もしかしたら、杜真子は老いらくさんのスケートボードが下にあって、それに載せて持っていけることを知っているんじゃないかな)とさえ、ぼくには思えた。もちろん、そんなはずはないけどね……。杜真子はぼくと別れる間際に、ぼくをもう一度抱き上げて何度もほおずりをしてくれた。
「年が明けたらきっとまた来るのよ。待ってるわ……」
杜真子がそう言った。ぼくは、にっこり、うなずいた。杜真子はそのあと、部屋のなかからかごを持ってきて、取っ手のところを縄できつく結わえてから、かごのなかに、ぼくとキャットフードを入れて、窓から下へ垂らして、そろそろと、おろしていった。地面に着いたぼくが、キャットフードをかごのなかから取り出すと、杜真子はかごを再び引き上げていった。それからしばらくしてから老いらくさんがスケートボードを引きながらやってきた。ぼくはスケートボードにキャットフードを載せた。梅園から持ってきたもう一つの袋をスケートボードからおろして、ぼくは首にかけた。この袋は馬小跳にあげるプレゼントだ。ぼくと老いらくさんはスケートボードを引きながら、馬小跳のうちへ向かった。