第三章 都市封鎖
天気……昨夜は冷たい風がひゅうひゅう吹いて、とても寒かった。風の音はこの世に降りかかってきた災禍を憂う自然の悲しみの泣き声のようにさえ聞こえた。「冬来たりならば春遠からじ」というが、風の音は前途多難を暗示させ、真冬に逆戻りしたようで、春の訪れはまだまだ先になりそうだ。夜が明けても、空には風雲急を告げる悪魔のような黒雲が広く垂れこめていて、しんと静まり返っている空虚な町の上を、すっぽりと覆い尽くしていた。
昨日の夜風は、怖いほどすさまじくて、地球に天変地異が起きて、自然をつかさどる神様が泣き叫んでいるように、ぼくの耳には聞こえた。
ぼくも妻猫も昨夜は一睡もできなかった。寝床のなかで、ぼくも妻猫も、子どもたちのことをずっと心配していた。
「パントーも、アーヤーも、サンポーも大丈夫でしょうか」
「そうだね。ぼくも気がかり思っている」
「元気だといいけど……」
「ぼくもそう願っている。心配しても仕方ないし、みんなもう大きくなったから、何とかやっているよ」
ぼくはそう言って、憂色漂う妻猫に
「元気を出そうよ」
と励ました。妻猫は軽くうなずいた。
妻猫はそれからまもなく、山洞の出入り口まで走っていって、前足を胸の前で合わせて、未明の空に輝いている星を仰ぎながら、願い事を呪文のように唱えた。
「天におわします神様、どうか、私たちの大切な子どもがみな無事でつつがなく生きていけるように、お力をお与えください。偉大なお力でどうか子どもたちを加護してください」
ぼくも山洞の出入り口まで走っていって、前足を胸の前で合わせて、未明の空を仰ぎながら、願い事を唱えた。
「天におわします神様、どうか、私たちの大切な子どもや、杜真子や馬小跳や唐飛や張達や毛超、そして老いらくさんが、元気で過ごせますように」
ちかちかと美しく輝いている星のなかに『山猫座』と呼ばれる星座が出ていた。ぼくと妻猫が願い事を唱えたあと、その星座に属する星星が一瞬、強い光を放ったように感じた。老いらくさんから以前、猫の神様は『山猫座』に住んでいらっしゃると、聞いたことがあったので、ぼくと妻猫の切なる願いが猫の神様に届いたかもしれないと、ぼくはそのとき思った。
しかしそれにしても昨夜の夜風は骨身に染みるほど応えた。老いらくさんは大丈夫だっただろうか。ぼくはとても心配していた。
夜が明けて、空が白みはじめるとすぐに、ぼくはうちを出て、老いらくさんを探しにいった。老いらくさんも翠湖公園に住んでいるが、一年四季を通して、すみかを変えるので、探すときには苦労する。老いらくさんが最も好きな場所は梅園なので、これまで冬の間はずっとそこに住んでいた。しかし冬が終わりに近づいて、ロウバイの花がちらほらと咲き始めるようになると、花を見るためにやってくる人がだんだん多くなってくる。そのために静かな時間が過ごせなくなった老いらくさんは、やむをえず、別の場所にすみかを変える。しかし今は翠湖公園の出入り門はすべて閉ざされているので、花見にやってくる人はいない。それを思うと、老いらくさんは昨夜は梅園で過ごしたと考えられないこともない。
そう思って、ぼくは梅園のほうへ走っていった。すると目の前に、鮮やかな黄色い地面が見えた。ロウバイの花びらだった。昨夜の強い風で吹き飛ばされた花びらが幾重にも重なって散り敷いていて、その上を歩くと、ぶかぶかして身体が沈みこむほどだった。
「やあ」
老いらくさんの声がした。やはりぼくが思っていたとおり、老いらくさんは梅園にいた。地面に厚く散り敷いたロウバイの花びらのなかから出てきたように、ぼくの目には見えた。
「どうしてこんなに早く来たんだ」
老いらくさんが、けげんそうな顔をしていた。
「昨日の夜風がひどかったから、老いらくさんは大丈夫かなと思って心配だったから」
ぼくは、そう答えた。
「そうか。わしが寒さで凍え死ぬんじゃないかと思って、心配して、わざわざ、こんなに早く会いに来てくれたのか。ありがとう」
老いらくさんが、そう言った。老いらくさんは年をとっているせいか、情にほだされやすい。ちょっとした気づかいや、いたわりが心にしみて、うれしく感じるようだ。
「お前のようなよい友だちに出会えたので、わしはもう、いつどうなってもいいよ。でも安心しろ。わしはまだこのとおり、とても元気だ」
老いらくの声には張りがあった。
「寒くなかったですか」
ぼくの気づかいに、老いらくさんは首を横に振った。
「大丈夫だよ。昨夜は、わしはロウバイの花びらの下で寝たよ。花びらが幾重にも重なっていて、まるで厚い掛け布団をかぶったように暖かかったよ。花のかおりも、ぷんぷんとにおって、とても気持ちがよかったよ。おかげで昨夜はぐっすり眠ることができたよ」
老いらくさんは、そう言って、とても満足そうな顔をしていた。
「そうですか、それはよかったです。でも大きな災禍が降りかかってきているというのに、ぐっすりと眠ることができたのですか。ぼくは心配で、昨夜は一睡もできなかったのに」
ぼくは口をとがらせた。
「………………」
老いらくさんから返事は返ってこなかった。
「今度の災禍は、地震よりももっと大きくて、もっと恐ろしいものだと、昨日、ぼくに話してくださったじゃないですか」
ぼくは声を大にして攻撃的に言った。
「ウイルスの感染は確かに地震よりもっと恐ろしい。しかし感染拡大を防ぐためには有効な方法がある。隔離することだ」
老いらくさんはそう言うと、そんなに心配することはないよと言わんばかりに、あくびをした。
「わしは昨日、翠湖公園の出入り口がすべて閉鎖されているのを見て、ほっとした」
老いらくさんがそう言った。ぼくにはまだ合点がいかなかった。
「隔離することで本当に効果があるのですか」
「あるさ。もちろん」
老いらくさんは自信にあふれた顔をしていた。
「わしは、これまで経験してきた血の出るような思いを想起して、そこから引き出してきた教訓をもとに今、お前に話しているのだよ。わしの言うことを信じろよ」
老いらくさんは、そう言うと、目をつむって、昔の辛かったことを思い出していた。老いらくさんの沈痛な面持ちを見て、ぼくの心は鉛のように重くなっていた。
「町が封鎖されたことを知っているか」
老いらくさんが聞いた。
「どういうことですか」
ぼくには意味がよく分からなかったので、聞き返した。
「この町から、人が出たり、よその町からこの町へ人が入ってこないようにすることだよ」
老いらくさんが、そう説明した。ぼくはうなずいた。
「これから、わしといっしょに公園の外の様子を見に行かないか」
老いらくさんが、ぼくを誘った。
「いいよ」
ぼくはそう答えた。
それからまもなく、ぼくと老いらくさんは翠湖公園の南門の下をくぐり抜けて、公園の外へ出た。南へ向かって延びている道を脱兎の勢いで走っていったが、路上に人の姿はほとんどなかった。サイレンをけたたましく鳴らしながら、フルスピードで走りすぎていく救急車を時々見かけた。救急車は路上に落ちていた枯葉を風で巻き上げながら、慌ただしく走り去っていった。風で舞き上げられた枯葉は、ひらひらと寒風に舞ってから、再び下に落ちていった。
「あの救急車は感染症にかかった人を病院へ搬送しているんじゃないかな」
老いらくさんの言葉は重く沈んでいた。でもすぐに気を取り直すと、落ち着いた声で
「考えようによっては、それはよいことだと言えないこともない」
と言った。ぼくには言葉の意味がよく分からなかった。
「患者を病院へ搬送することが、どうしてよいことなのですか」
ぼくは、けげんそうな声で聞き返した。
「ウイルスにはみな潜伏期があって、その時期が最も危険なときなのだ。感染していることに気がつかないまま広がっていくからだ。表面に現れたらすぐに病院に搬送して隔離して、感染拡大を防ぐことができる」
老いらくさんがそう説明した。話を聞いて、ぼくは納得した。
ぼくと老いらくさんは、町の様子を知るために、さらに走り続けた。一般道路には車の姿はほとんどなかったので、ぼくと老いらくさんは車を気にすることなく、どんどん走っていくことができた。気がついたら高速道路の出入り口付近まで走ってきていた。左側の車線は町への進入車線、右側の車線は町から出て行く車の通行車線になっていた。どちらの車線にも車が数珠繋ぎに数十台、並んで止まっていた。車線の出入り口付近には警察のパトカーが進路を塞ぐように止まっていた。防護服とマスクを身につけた警官が交通誘導をしていて、車を来た方向にUターンさせていた。
「よし、それでいいんだ。これで車の出入りは遮断(しゃだん)された」
老いらくさんは嬉々として、感情をひどく高ぶらせていた。
「これから空港へ行ってみないか」
老いらくさんがぼくをまた誘った。
「いいよ、行ってみよう」
ぼくはうなずいた。
それからまもなく、ぼくと老いらくさんは再び駆け出して、町の南のほうへ向かった。空港は町のはずれにあるので、少し遠かったが、空港がどういう状態になっているのか知りたかったので、ぼくと老いらくさんは厭わずに行ってみることにした。ぼくも老いらくさんも、以前、何度か空港に行ったことがある。ぼくも老いらくさんも、飛行機が離陸したり、着陸したりするのを見るのがとても好きだ。頭の上を、ものすごい音を立てながら、巨大な機体が飛んだり降りたりするのを間近で見るときの迫力にはいつも圧倒される。ぼくも老いらくさんも、空を飛べないので、飛行機に乗って、空からこの町を見たらどんな感じなのだろうと思って、飛行機を見るたびにわくわくする。行ったこともない遠い町や外国へも、すぐに行けるし、海を超えて海外へも行ける。文明の利器とも言える飛行機に、ぼくも老いらくさんも心を惹きつけられている。
町の中心部から空港へ行くための高速道路があるが、今はその道路も閉鎖されていた。空港へ行くための一般道路もあるが、ぼくと老いらくさんは、あまり知られていない田舎道を通って空港に行くことにした。そのほうが近道なので、早く着けるからである。
道の周りには畑が広がっていて、碁盤の目のようにきれいに区画整備されていた。畑のなかには、菜種油を取るための菜の花が、いっぱい植えられていた。菜の花はまだ咲いていなかったが、緑色をした葉と茎が晩冬の冷たい風に当たって、波打つように揺れていた。視界はずっと先まで開けていて、遠くまで見渡すことができた。でも今のぼくには、のどかな田園風景を楽しむ心の余裕はなかった。目の前に大きな災禍が降りかかってきているからだ。
走っていくぼくたちの目の前にやがて空港が見えてきた。広い駐機場に、たくさんの飛行機が停まっているのが目に入った。どの飛行機もジュラルミンの機体に太陽の光が当たって、まばゆいほどに輝いていた。翠湖公園で見る飛行機は鳥のように見えるが、こんな間近で見ると、途方もなく大きくて、迫力に圧倒されて、怖ささえ感じることもある。しかしやはり飛行機には夢とロマンが感じられる。一度でいいから、ぼくも飛行機に乗ってみたい。飛行機を見るたびに、ぼくはいつもそう思っている。
ぼくと老いらくさんは、空港の近くまで来ると、走るのをやめて、飛行機が飛び立つのを、じっと待っていた。しかし時間が長くたっても離陸や着陸をする飛行機は一機もなかった。
(空港も閉鎖されたのか)
ぼくはそう思った。
「よし、いいぞ、いいぞ、いいぞ」
老いらくさんは、いいぞという言葉を三回繰り返した。
「これでこの町は完全に外部との接触が遮断(しゃだん)された。これでこの町は今度の災禍に必ず打ち勝つことができる。わしはそう確信している」
老いらくさんが自信にあふれた顔をしていた。
「今度の世界大戦は長期戦になる。致し方ないが、とことん最後まで戦い抜いて、必ず勝利を収める」
意気天を衝くような老いらくさんの強い決意が伝わってきた。疫病との戦いを世界大戦と呼んだところに、老いらくさんの並々ならぬ意気込みが感じられた。いささかオーバーな表現に感じられないこともないが、それが老いらくさん流の感情表現なのだと、ぼくは思った。老いらくさんは次のように話した。
「この世界は、一つの地球村であり、感染力の強いウイルスは、目に見えない翼を広げて、地球の隅々にまで飛んでいく。どこにでも降り立って人も動物も滅ぼしていく。しかし、人も動物も、そうやすやすと滅ぼされるわけではない。人も動物もみんなウイルスと戦って必ず勝利を収めるのだ。世界の総力を結集して戦うのだ。これが世界大戦以外の何だというのだ」
老いらくさんの力説に、ぼくは勇気をもらった。
(なるほど、これは確かに世界大戦だ。ぼくもひるまないで戦わなければ)
ぼくは決意を新たにした。
「今度の世界大戦は、長期戦になるって、さっきおっしゃったけど、どれくらい長く続くのですか」
ぼくは老いらくさんに聞いた。
「そうだな、少なくとも三ヶ月、長く見て六ヶ月、いや、もっと長くなるかもしれないな」
老いらくさんがそう答えた。
「疫病が収束するためには、ワクチンが人口の七十五パーセント以上に行き渡って、ある程度の集団免疫に達しなければならない。
そのためには、どうしても長くかかるのだよ」
老いらくさんがそう言った。
「そうですか。その間、たくさんの人が感染して亡くなっていくのですよね」
ぼくは胸が痛んだ。
「怖いか」
老いらくさんが聞いたので、ぼくは正直にうなずいた。
「見えない敵を怖がってもしかたがないから、わしと同じように、物事をあまり悪いほうに考えないほうがいいよ。疫病の感染状況がどれくらいなのか、まだはっきり分からないが、この町では発見が早かったから、まん延を防ぐことが、ほぼ完全にできるんじゃないかと、わしは思っている」
老いらくさんがそう言って、ぼくの気持ちを落ち着かせてくれた。ふっと気がつくと、日はもうすでに西の空に沈み始めていた。冷たい風がまた出てきた。寒風が吹きすさぶなかで、あたり一面に広がっている菜の花畑では、緑色の葉や茎が波打って揺れていた。ぼくと老いらくさんは凍てつくように冷たい風のなかを飛ぶようにして一目散に帰っていった。
町の中心部まで戻ってきたときには、空はもう真っ暗になっていた。疫病が出る前までは、町のあちこちに、ネオンの明かりが、あかあかと、ともっていた。デパートやホテルも遅くまで営業していた。しかし今はみな営業を停止していた。町にある建物のほとんどが電気がついていなくて、真っ暗で何も見えなかった。ひっそりと静まりかえっていて、うら寂しくなった町の大通りや横丁は、ゴーストタウンのように暗くて気味が悪く、まるで死神がそこにいて、至るところを、ぶらぶらと歩いているようにさえ思えた。
天気……昨夜は冷たい風がひゅうひゅう吹いて、とても寒かった。風の音はこの世に降りかかってきた災禍を憂う自然の悲しみの泣き声のようにさえ聞こえた。「冬来たりならば春遠からじ」というが、風の音は前途多難を暗示させ、真冬に逆戻りしたようで、春の訪れはまだまだ先になりそうだ。夜が明けても、空には風雲急を告げる悪魔のような黒雲が広く垂れこめていて、しんと静まり返っている空虚な町の上を、すっぽりと覆い尽くしていた。
昨日の夜風は、怖いほどすさまじくて、地球に天変地異が起きて、自然をつかさどる神様が泣き叫んでいるように、ぼくの耳には聞こえた。
ぼくも妻猫も昨夜は一睡もできなかった。寝床のなかで、ぼくも妻猫も、子どもたちのことをずっと心配していた。
「パントーも、アーヤーも、サンポーも大丈夫でしょうか」
「そうだね。ぼくも気がかり思っている」
「元気だといいけど……」
「ぼくもそう願っている。心配しても仕方ないし、みんなもう大きくなったから、何とかやっているよ」
ぼくはそう言って、憂色漂う妻猫に
「元気を出そうよ」
と励ました。妻猫は軽くうなずいた。
妻猫はそれからまもなく、山洞の出入り口まで走っていって、前足を胸の前で合わせて、未明の空に輝いている星を仰ぎながら、願い事を呪文のように唱えた。
「天におわします神様、どうか、私たちの大切な子どもがみな無事でつつがなく生きていけるように、お力をお与えください。偉大なお力でどうか子どもたちを加護してください」
ぼくも山洞の出入り口まで走っていって、前足を胸の前で合わせて、未明の空を仰ぎながら、願い事を唱えた。
「天におわします神様、どうか、私たちの大切な子どもや、杜真子や馬小跳や唐飛や張達や毛超、そして老いらくさんが、元気で過ごせますように」
ちかちかと美しく輝いている星のなかに『山猫座』と呼ばれる星座が出ていた。ぼくと妻猫が願い事を唱えたあと、その星座に属する星星が一瞬、強い光を放ったように感じた。老いらくさんから以前、猫の神様は『山猫座』に住んでいらっしゃると、聞いたことがあったので、ぼくと妻猫の切なる願いが猫の神様に届いたかもしれないと、ぼくはそのとき思った。
しかしそれにしても昨夜の夜風は骨身に染みるほど応えた。老いらくさんは大丈夫だっただろうか。ぼくはとても心配していた。
夜が明けて、空が白みはじめるとすぐに、ぼくはうちを出て、老いらくさんを探しにいった。老いらくさんも翠湖公園に住んでいるが、一年四季を通して、すみかを変えるので、探すときには苦労する。老いらくさんが最も好きな場所は梅園なので、これまで冬の間はずっとそこに住んでいた。しかし冬が終わりに近づいて、ロウバイの花がちらほらと咲き始めるようになると、花を見るためにやってくる人がだんだん多くなってくる。そのために静かな時間が過ごせなくなった老いらくさんは、やむをえず、別の場所にすみかを変える。しかし今は翠湖公園の出入り門はすべて閉ざされているので、花見にやってくる人はいない。それを思うと、老いらくさんは昨夜は梅園で過ごしたと考えられないこともない。
そう思って、ぼくは梅園のほうへ走っていった。すると目の前に、鮮やかな黄色い地面が見えた。ロウバイの花びらだった。昨夜の強い風で吹き飛ばされた花びらが幾重にも重なって散り敷いていて、その上を歩くと、ぶかぶかして身体が沈みこむほどだった。
「やあ」
老いらくさんの声がした。やはりぼくが思っていたとおり、老いらくさんは梅園にいた。地面に厚く散り敷いたロウバイの花びらのなかから出てきたように、ぼくの目には見えた。
「どうしてこんなに早く来たんだ」
老いらくさんが、けげんそうな顔をしていた。
「昨日の夜風がひどかったから、老いらくさんは大丈夫かなと思って心配だったから」
ぼくは、そう答えた。
「そうか。わしが寒さで凍え死ぬんじゃないかと思って、心配して、わざわざ、こんなに早く会いに来てくれたのか。ありがとう」
老いらくさんが、そう言った。老いらくさんは年をとっているせいか、情にほだされやすい。ちょっとした気づかいや、いたわりが心にしみて、うれしく感じるようだ。
「お前のようなよい友だちに出会えたので、わしはもう、いつどうなってもいいよ。でも安心しろ。わしはまだこのとおり、とても元気だ」
老いらくの声には張りがあった。
「寒くなかったですか」
ぼくの気づかいに、老いらくさんは首を横に振った。
「大丈夫だよ。昨夜は、わしはロウバイの花びらの下で寝たよ。花びらが幾重にも重なっていて、まるで厚い掛け布団をかぶったように暖かかったよ。花のかおりも、ぷんぷんとにおって、とても気持ちがよかったよ。おかげで昨夜はぐっすり眠ることができたよ」
老いらくさんは、そう言って、とても満足そうな顔をしていた。
「そうですか、それはよかったです。でも大きな災禍が降りかかってきているというのに、ぐっすりと眠ることができたのですか。ぼくは心配で、昨夜は一睡もできなかったのに」
ぼくは口をとがらせた。
「………………」
老いらくさんから返事は返ってこなかった。
「今度の災禍は、地震よりももっと大きくて、もっと恐ろしいものだと、昨日、ぼくに話してくださったじゃないですか」
ぼくは声を大にして攻撃的に言った。
「ウイルスの感染は確かに地震よりもっと恐ろしい。しかし感染拡大を防ぐためには有効な方法がある。隔離することだ」
老いらくさんはそう言うと、そんなに心配することはないよと言わんばかりに、あくびをした。
「わしは昨日、翠湖公園の出入り口がすべて閉鎖されているのを見て、ほっとした」
老いらくさんがそう言った。ぼくにはまだ合点がいかなかった。
「隔離することで本当に効果があるのですか」
「あるさ。もちろん」
老いらくさんは自信にあふれた顔をしていた。
「わしは、これまで経験してきた血の出るような思いを想起して、そこから引き出してきた教訓をもとに今、お前に話しているのだよ。わしの言うことを信じろよ」
老いらくさんは、そう言うと、目をつむって、昔の辛かったことを思い出していた。老いらくさんの沈痛な面持ちを見て、ぼくの心は鉛のように重くなっていた。
「町が封鎖されたことを知っているか」
老いらくさんが聞いた。
「どういうことですか」
ぼくには意味がよく分からなかったので、聞き返した。
「この町から、人が出たり、よその町からこの町へ人が入ってこないようにすることだよ」
老いらくさんが、そう説明した。ぼくはうなずいた。
「これから、わしといっしょに公園の外の様子を見に行かないか」
老いらくさんが、ぼくを誘った。
「いいよ」
ぼくはそう答えた。
それからまもなく、ぼくと老いらくさんは翠湖公園の南門の下をくぐり抜けて、公園の外へ出た。南へ向かって延びている道を脱兎の勢いで走っていったが、路上に人の姿はほとんどなかった。サイレンをけたたましく鳴らしながら、フルスピードで走りすぎていく救急車を時々見かけた。救急車は路上に落ちていた枯葉を風で巻き上げながら、慌ただしく走り去っていった。風で舞き上げられた枯葉は、ひらひらと寒風に舞ってから、再び下に落ちていった。
「あの救急車は感染症にかかった人を病院へ搬送しているんじゃないかな」
老いらくさんの言葉は重く沈んでいた。でもすぐに気を取り直すと、落ち着いた声で
「考えようによっては、それはよいことだと言えないこともない」
と言った。ぼくには言葉の意味がよく分からなかった。
「患者を病院へ搬送することが、どうしてよいことなのですか」
ぼくは、けげんそうな声で聞き返した。
「ウイルスにはみな潜伏期があって、その時期が最も危険なときなのだ。感染していることに気がつかないまま広がっていくからだ。表面に現れたらすぐに病院に搬送して隔離して、感染拡大を防ぐことができる」
老いらくさんがそう説明した。話を聞いて、ぼくは納得した。
ぼくと老いらくさんは、町の様子を知るために、さらに走り続けた。一般道路には車の姿はほとんどなかったので、ぼくと老いらくさんは車を気にすることなく、どんどん走っていくことができた。気がついたら高速道路の出入り口付近まで走ってきていた。左側の車線は町への進入車線、右側の車線は町から出て行く車の通行車線になっていた。どちらの車線にも車が数珠繋ぎに数十台、並んで止まっていた。車線の出入り口付近には警察のパトカーが進路を塞ぐように止まっていた。防護服とマスクを身につけた警官が交通誘導をしていて、車を来た方向にUターンさせていた。
「よし、それでいいんだ。これで車の出入りは遮断(しゃだん)された」
老いらくさんは嬉々として、感情をひどく高ぶらせていた。
「これから空港へ行ってみないか」
老いらくさんがぼくをまた誘った。
「いいよ、行ってみよう」
ぼくはうなずいた。
それからまもなく、ぼくと老いらくさんは再び駆け出して、町の南のほうへ向かった。空港は町のはずれにあるので、少し遠かったが、空港がどういう状態になっているのか知りたかったので、ぼくと老いらくさんは厭わずに行ってみることにした。ぼくも老いらくさんも、以前、何度か空港に行ったことがある。ぼくも老いらくさんも、飛行機が離陸したり、着陸したりするのを見るのがとても好きだ。頭の上を、ものすごい音を立てながら、巨大な機体が飛んだり降りたりするのを間近で見るときの迫力にはいつも圧倒される。ぼくも老いらくさんも、空を飛べないので、飛行機に乗って、空からこの町を見たらどんな感じなのだろうと思って、飛行機を見るたびにわくわくする。行ったこともない遠い町や外国へも、すぐに行けるし、海を超えて海外へも行ける。文明の利器とも言える飛行機に、ぼくも老いらくさんも心を惹きつけられている。
町の中心部から空港へ行くための高速道路があるが、今はその道路も閉鎖されていた。空港へ行くための一般道路もあるが、ぼくと老いらくさんは、あまり知られていない田舎道を通って空港に行くことにした。そのほうが近道なので、早く着けるからである。
道の周りには畑が広がっていて、碁盤の目のようにきれいに区画整備されていた。畑のなかには、菜種油を取るための菜の花が、いっぱい植えられていた。菜の花はまだ咲いていなかったが、緑色をした葉と茎が晩冬の冷たい風に当たって、波打つように揺れていた。視界はずっと先まで開けていて、遠くまで見渡すことができた。でも今のぼくには、のどかな田園風景を楽しむ心の余裕はなかった。目の前に大きな災禍が降りかかってきているからだ。
走っていくぼくたちの目の前にやがて空港が見えてきた。広い駐機場に、たくさんの飛行機が停まっているのが目に入った。どの飛行機もジュラルミンの機体に太陽の光が当たって、まばゆいほどに輝いていた。翠湖公園で見る飛行機は鳥のように見えるが、こんな間近で見ると、途方もなく大きくて、迫力に圧倒されて、怖ささえ感じることもある。しかしやはり飛行機には夢とロマンが感じられる。一度でいいから、ぼくも飛行機に乗ってみたい。飛行機を見るたびに、ぼくはいつもそう思っている。
ぼくと老いらくさんは、空港の近くまで来ると、走るのをやめて、飛行機が飛び立つのを、じっと待っていた。しかし時間が長くたっても離陸や着陸をする飛行機は一機もなかった。
(空港も閉鎖されたのか)
ぼくはそう思った。
「よし、いいぞ、いいぞ、いいぞ」
老いらくさんは、いいぞという言葉を三回繰り返した。
「これでこの町は完全に外部との接触が遮断(しゃだん)された。これでこの町は今度の災禍に必ず打ち勝つことができる。わしはそう確信している」
老いらくさんが自信にあふれた顔をしていた。
「今度の世界大戦は長期戦になる。致し方ないが、とことん最後まで戦い抜いて、必ず勝利を収める」
意気天を衝くような老いらくさんの強い決意が伝わってきた。疫病との戦いを世界大戦と呼んだところに、老いらくさんの並々ならぬ意気込みが感じられた。いささかオーバーな表現に感じられないこともないが、それが老いらくさん流の感情表現なのだと、ぼくは思った。老いらくさんは次のように話した。
「この世界は、一つの地球村であり、感染力の強いウイルスは、目に見えない翼を広げて、地球の隅々にまで飛んでいく。どこにでも降り立って人も動物も滅ぼしていく。しかし、人も動物も、そうやすやすと滅ぼされるわけではない。人も動物もみんなウイルスと戦って必ず勝利を収めるのだ。世界の総力を結集して戦うのだ。これが世界大戦以外の何だというのだ」
老いらくさんの力説に、ぼくは勇気をもらった。
(なるほど、これは確かに世界大戦だ。ぼくもひるまないで戦わなければ)
ぼくは決意を新たにした。
「今度の世界大戦は、長期戦になるって、さっきおっしゃったけど、どれくらい長く続くのですか」
ぼくは老いらくさんに聞いた。
「そうだな、少なくとも三ヶ月、長く見て六ヶ月、いや、もっと長くなるかもしれないな」
老いらくさんがそう答えた。
「疫病が収束するためには、ワクチンが人口の七十五パーセント以上に行き渡って、ある程度の集団免疫に達しなければならない。
そのためには、どうしても長くかかるのだよ」
老いらくさんがそう言った。
「そうですか。その間、たくさんの人が感染して亡くなっていくのですよね」
ぼくは胸が痛んだ。
「怖いか」
老いらくさんが聞いたので、ぼくは正直にうなずいた。
「見えない敵を怖がってもしかたがないから、わしと同じように、物事をあまり悪いほうに考えないほうがいいよ。疫病の感染状況がどれくらいなのか、まだはっきり分からないが、この町では発見が早かったから、まん延を防ぐことが、ほぼ完全にできるんじゃないかと、わしは思っている」
老いらくさんがそう言って、ぼくの気持ちを落ち着かせてくれた。ふっと気がつくと、日はもうすでに西の空に沈み始めていた。冷たい風がまた出てきた。寒風が吹きすさぶなかで、あたり一面に広がっている菜の花畑では、緑色の葉や茎が波打って揺れていた。ぼくと老いらくさんは凍てつくように冷たい風のなかを飛ぶようにして一目散に帰っていった。
町の中心部まで戻ってきたときには、空はもう真っ暗になっていた。疫病が出る前までは、町のあちこちに、ネオンの明かりが、あかあかと、ともっていた。デパートやホテルも遅くまで営業していた。しかし今はみな営業を停止していた。町にある建物のほとんどが電気がついていなくて、真っ暗で何も見えなかった。ひっそりと静まりかえっていて、うら寂しくなった町の大通りや横丁は、ゴーストタウンのように暗くて気味が悪く、まるで死神がそこにいて、至るところを、ぶらぶらと歩いているようにさえ思えた。

