マスクをした猫

第二章 ひと夜のうちに

天気……朝早く目が覚めると、ロウバイの木に、うっすらと霧がかかっていた。霧はシルクのように透き通っていて、ロウバイの木に柔らかくまとわりついていた。清く透き通った霧に包まれた幻想的な風情のなかで咲いているロウバイの花は、ほのかな香りを辺りに漂わせていて存在感にあふれていた。日が高く昇るにつれて、強い陽射しが照りつけてきて、幻想的な霧を跡形もなく消散させていった。紺碧の青空が大地に映えて、ロウバイの花の美しさをいっそう引き立てていた。ろう細工のような光沢をした芳香のある黄色い花びらに陽の光が当たって、ほろほろとこぼれていた。

今日もまた昨日に引き続いて、ぽかぽかとしたよい天気だ。仲春のように暖かい陽射しに誘われて、日光浴をするために、翠湖公園にやってくる人は、昨日よりも、もっと多くなるはずだ。ぼくはそう思った。
妻猫は、昨日出会った黒衣のイケメンダンサーに、人目ぼれをしていて、すっかり、とりこになっていた。今朝起きがけに、妻猫はぼくに
「今日もまた、あの人の華麗な踊りを見ることができるかしら」
と、聞いた。
「もちろんだよ。毎日いつも午後三時にやってくると、地包天が言ってたから」
「そうね。でも今日は何となく、いつもとは違うように思えるけど、気のせいかしら……」
妻猫の顔に、うっすらと影が差していた。
「どうして、そう思うのだい」
ぼくは、けげんに思って聞き返した。
「だって、いつもなら、この時間帯には、公園にはもうすでに大勢の人たちが来ていて、音楽に合わせて太極拳をしているけど、今日はなぜか音楽が聞こえなくて、ひっそりしているわ」
妻猫は耳をそばだてて音楽を聞こうとしていたが
「聞こえない」
と言って首を横に振った。
妻猫は聴覚がとても優れているので、遠くで聞こえるかすかな音まで聞くことができる。しかし今朝はまったく音が聞こえないと言っている。妻猫の聴覚は研ぎ澄まされていて確かだから、言うことに偽りはない。ぼくは気になったので、外の様子を見るために、うちを出て、山洞の出入り口まで行った。外はもうすでに夜が明けて明るくなっていたが、猫の子一匹、人の姿がなかった。
(何かあったんだ。きっとそうに違いない)
ぼくはそう思った。
「ぼくはこれから外へ行って、様子をちょっと見てくる。お母さんは、ここで待ってて。ぼくが戻ってくるまで、出たらだめだよ」
ぼくはそう言い残すと、山洞から飛び出していった。明け方の
ひんやりした風が顔に当たって冷たく感じられた。
ぼくは白玉塔の下まで走っていった。昨日まではここには今の時間帯には、太極拳をする人がとても多くいたが、今朝はだれもいなかった。
(変だなぁ)
ぼくはそう思いながら、そこを出て、楠の木が茂っている林のなかへ走っていった。昨日までは、ここで大きな声を出して、京劇のせりふを唱えて発声練習をする人がたくさんいた。しかし今日は誰もいなかった。
(本当に何があったんだろう)
ぼくは顔の表情を曇らせながら、今度は回廊まで走っていった。昨日までは、うちで飼っているオウムをここに連れてきて、もの真似上手をひけらかす人がたくさんいた。そのなかにはソプラノ歌手もいた。その人が飼っているオウムは英語やフランス語を話すことができた。イタリア語で『オーソレミオ』を歌うこともできた。京劇に出てくる、くちばしが赤くて羽が緑色をしたオウムのせりふを真似したり、インターネット上で人気者になったアフリカ原産のオウムを飼っている人もいて、自慢ののどを聞かせていた。しかし今日はなぜか人の姿がまったくなかった。
(何かあったんだ。きっとそうに違いない)
不安な思いを、ぼくはさらに強めた。
(一体、何が起きたんだろう)
ぼくは居ても立ってもいられなくなったので、すぐに老いらくさんを訪ねて行くことにした。老いらくさんは、とても長く生きているので、経験や知識が、ぼくよりはるかに多い。
(彼に聞けば何か教えてくれるに違いない)
ぼくはそう思った。
どこに行けば老いらくさんに会えるのか、皆目見当もつかなかったが、とりあえず梅園に行ってみることにした。何か困ったことや、相談したいことがあるときは、老いらくさんといつも梅園で待ち合わせていたからだ。
ぼくが梅園に着いたとたんに
「やあ、笑い猫」
と、老いらくさんから声をかけられた。『以心伝心』というのだろうか、ぼくが思っていたとおり、老いらくさんは梅園で、ぼくを待っていてくれた。
梅園のなかはロウバイの花の芳香が漂い、今が盛りとばかりに黄色い花が咲き誇っていた。地面にも花が散り敷いていて、あたかも黄色いじゅうたんが敷かれているようだった。とてもきれいだったが、今のぼくには花を観賞する心の余裕がなかった。ぼくのすぐ近くまで、老いらくさんが来ていたので、せきを切ったように、ぼくは老いらくさんに聞いた。
「一体、何が起きたんですか。どうして、ひと晩のうちに、翠湖公園から人の姿が跡形もなく消えてしまったんですか」
ぼくは興奮して、せきこんでいた。
「災禍が降りかかってきたんだ。ただごとじゃない深刻な災禍だ」
老いらくさんが痛嘆していた。
「どんな災禍ですか」
間、髪を入れずに、ぼくはすぐに聞き返した。
「わしにも、まだはっきりしたことは分からないが、深刻な災禍が急に降りかかってきたようだ」
老いらくさんの声は重く沈んでいた。
生まれてからこのかた、ぼくも、いろいろな災害や災禍に遭遇したことがあった。なかでも忘れられないのは、この町のすぐ近くで起きた四川大地震だ。あのときは、天地を激しく揺らすほどの大きな揺れが突然起きて、揺れがおさまるまでは生きている心地がしなかった。地震で建物や道は至るところで大きく壊れ、町全体が廃墟と化した。国外に目を向ければ、オーストラリアで大規模な森林火災が発生して、数ヶ月にわたって燃え続けて、多くのカンガルーが犠牲になったというニュースを杜真子のうちのテレビで見たことがあった。しかし、この町の人たちは、つい昨日まで、あんなに喜びにあふれた顔をしながら、春節を迎えるための準備をしていたじゃないか。町の至るところに赤い灯篭がともされて、お祝い気分にあふれていたじゃないか。公園を楽しく散策する人もいたじゃないか。それなのにどうしてわずか、ひと夜のうちに、天地がひっくり返ったように、しーんとなって、物音一つしなくなってしまったのだろうか。一体、どんな災禍が降りかかってきたのだろうか。ぼくはそう思った。
「わしにも、今のところ、まだよく分からない」
老いらくさんは顔の表情を石のように固くこわばらせながら、そう言った。
「あくまでも、わしの推測に過ぎないが、もしそれが本当なら、えらいことになる。多くの人が亡くなる。人だけでなく、お前やわしも……」
老いらくさんは口ごもった。
「脅かさないでくださいよ。さあ早く言ってください。どんな災禍が起きたのではないかと推測しているのですか」
ぼくは矢も盾もたまらなくなった。
「十中八九、わしの推測だから、今はまだお前に話すことは差し控えておこう。それよりもこれからちょっと町の様子を見に行かないか」
老いらくさんがそう言った。
「いいよ」
ぼくはうなずいた。
ぼくと老いらくさんは、それからまもなく梅園を出た。
翠湖公園のなかは、ひっそりとしていて、人影はまったくなくて、草花や樹木の手入れをする作業員の姿さえ見えなかった。
翠湖公園は町の中心部にあって、公園の周りは木でぐるっと囲ってあり、市民の憩いの場となっている。公園の東西南北に、それぞれ出入り口があり、公園に憩いに来る人はここを通って、なかに入ってくる。
ぼくと老いらくさんはまず東門に走っていった。東門はもうすでに鉄の扉が施錠されていて、人がなかに入ってくることができなくなっていた。東門の先には大通りがあって、昨日までは車が渋滞して止まっていたが、今日は車の姿は一台もなかった。
ぼくと老いらくさんは次に西門に走っていった。西門も固く施錠されていた。西門の先には狭い路地があって、昨日までは人の往来があったが、今日は人の姿はまったくなくて閑散としていた。
ぼくと老いらくさんは次に南門に走っていった。南門もやはりがっちりと施錠されていて通行禁止になっていた。南門の先には大企業のオフィスビルが建っていて、昨日までは大勢の人が忙しそうに働いている姿が見えた。しかし今日は電気が消えて、ひっそりとしていた。
ぼくと老いらくさんは次に北門に走っていった。やはり同じだった。頑丈な鉄の扉に鍵が掛けられていて、出入りが厳禁されていた。北門の先には大型スーパーがあって、昨日までは買い物客で活気にあふれていた。しかし今日は寂然としていた。
「やはり、わしの推測していたとおりのようだ」
老いらくさんがそう言った。
「今なら、はっきりとお前に、わしが推測していたことを言うことができる」
老いらくさんが確信にあふれた声でそう言った。
「疫病が起きたんだ。発生状況が深刻な事態になっている」
老いらくさんがまゆを曇らせていた。
ぼくにはそれでもまだ事態の深刻さがよく飲み込めていなかった。
「どうして、公園の出入り口を閉鎖しなければならなかったのですか」
ぼくは、どうしても納得がいかなかったので、老いらくさんに聞いた。
「ウイルスは飛沫(ひまつ)を通して感染が広がっていくので、人と人の濃密な接触をできるだけ避けて、病原菌が広がっていくことを絶つことが何よりも大切なんだ。そのためには、こうするよりほかなかったのだ。感染のまん延防止のために今、できる最もよい方法は、人と人との接触を避けることなんだ」
「そういうわけだったんですか」
老いらくさんの話を聞いて、ぼくは目からうろこが落ちた。さすが老いらくさんだけのことはある。理路整然とした老いらくさんの話には説得力があり、真実味にあふれている。老いらくさんは長く生きてきているので、これまでに経験してきたことはとても多いし、その経験に基づいて話をしているので、見識の高さに感心して思わず敬服せずにはいられなくなる。
「わしはこれまで疫病の感染状況を何度か見たことがある。いずれもとても悲惨で深刻な事態に陥っていて、とても正視できないほど辛いものだった」
老いらくさんは目をつむって、これまで見てきた過去の疫病の感染状況に思いをはせて涙を流していた。
「思い出せば思い出すほど涙がこみあげてきて、とまらなくなる。しかばねが、あちこちにごろごろと横たわっていて、痛ましくて見ていられなかった……」
老いらくさんは首を横に振って、もう思い出すのはいやだといった顔をして、絶望感に打ちひしがれていた。
ぼくもこれまで、思わず目を覆いたくなるような悲惨な光景を見たことがある。四川大地震のときだ。地震のあと、町は廃墟と化して、町の至るところに血まみれの死体が横たわっていた。四川大地震のことは、老いらくさんも、もちろんよく知っているので、ぼくは老いらくさんに、おずおずとした声で
「あの大地震よりも、もっとひどいことが起きたの」
と、聞いた。
「うん、そうだ。もっとひどいことが起きた」
老いらくさんの顔には憂色が漂っていた。
「地震はある特定の場所で起きて、一瞬のうちにそこを破壊するが、収束するのも早い。しかし目に見えないウイルスは、隠れた翼を広げて、地球の隅々にまで飛んでいく。国境を超え、白人にも黒人にも黄色人種にも感染し、老若男女や、身分の上下や地位にかかわりなく、感染は広がっていく。感染がいつからどこで、何から始まったのか誰も知らない。感染がいつ終わるのかも誰も知らない」
老いらくさんの心は悲愁に閉ざされていた。
老いらくさんの話を聞き終えると、ぼくは重い足取りで、うちへ帰っていった。うちで妻猫がぼくの帰りを待っているので、老いらくさんから聞いた情報を、早く伝えてやらなければならない。ぼくが山洞に着くと、妻猫は家の出入り口まで出てきて、ぼくを迎えてくれた。
「一体、何があったの」
憂いに沈んだぼくの顔を見ると、妻猫は開口一番、そう聞いた。
「四川大地震よりも、もっと大変なことが起きたんだ」
ぼくはそう答えた。
「何なの」
妻猫が不安そうな顔をしていた。
「ウイルスによって強い疫病が発生したんだ」
ぼくは胸を痛めながら、そう答えた。
「この公園の出入り口はすべて固く施錠されている。誰も入ってくることができなくなった。人から人に感染することを、みな怖れているのだ」
ぼくはそう説明した。
「そうだったの。人の気配がしなくて、ひっそりしていたのは、そのためだったのね」
妻猫がうなずいていた。
妻猫も四川大地震の恐ろしさを身を持って経験したことがあるので、それ以上の大変なことが起きたと聞いて、事の重大さに憂思していた。
「私たち、これからどうすればいいの」
妻猫が案じていた。
「しばらくここでじっとしていようよ」
ぼくはそう答えた。
「食料はあとどれくらいある」
ぼくは妻猫に聞いた。
「多く見積もって三日ぐらい」
妻猫が不安そうな声で、そう答えた。
「そうか、それくらいか」
ぼくも、心もとなくなってきた。
「いつもなら、今日は馬小跳たちが、私たちのために食料を持ってきてくれる日なんだけどね」
妻猫が、ぼそぼそっとした声でそう言った。
「そうだね」
ぼくは元気のない声で、うなずいた。
馬小跳と杜真子はいつも定期的に、ぼくや妻猫にキャットフードや、ビスケットや缶詰や、そのほか、いろいろなおやつを持ってきてくれる。おかげでぼくたちは、これまでずっとここで何の心配もなく生活することができた。でも今は、翠湖公園の出入り口がみな封鎖されてしまったので、ぼくと妻猫のこれからの生活はどうなるのだろうか。