「さて、ジェシカ。スイーツを食べるためには……」
「ダンスに応じることね! 大丈夫。忘れてないわ」

マーカスは近くでジェシカに声をかける機会を伺う男性陣を目の端に捉えながら、オリヴァーがしつこく言ってきた手前、形だけでもジェシカを諫めておこうと確認していた。

「それに、ロジアン夫人にも誘われてるもの。スイーツを堪能するためにも頑張るわ」
「そうかい。それじゃあ、行っておいで」

頑張る方向性は、それでいいのか……。
そんな疑問を呑み込んで、友人に招かれた夜会ぐらい好きに楽しませてやりたいと、娘の背中を押した。

「珍しいわね」
「うっそ、王室の開く夜会でもないのに?」
「ほら、ロジアン夫人と前に……」

そのざわめきはジェシカにも届いており、父と共に女性陣の注目を集めている方向へ視線を向けた。頭一つ分飛び出したその人の前には、特に何もしていないというのに自然と人一人分の道が開かれていく。

「モーゼみたいね」

と呟いたジェシカの声は、誰の耳にも届かなかったようだ。女性陣はその人物に声をかけたいのに、少しの隙も見つけられず手をこまねいている。その間にその人は迷いなく進んで、本日のホストであるロジアンとにこやかに挨拶を交わした。
そろそろ声をかけても……とそわそわする女性たちに全く気が付かないのか、するりと身をひるがえすと、また同じように開けた道を迷いなく進み、ジェシカの前で足を止めた。
ジェシカよりも高い位置にあるその顔を見上げると、にやりとされた。

「モーゼじゃないぞ、ジェシカ」

それほど大きな声でもないのに、静まり返っていたこともあって〝ジェシカ〟と親しげに呼んだ声はばっちりと聞かれていた。

「フェルナン様! 聞こえちゃってたかしら? だって、あなたの前にサッと道が開けるんですもの」
「口の動きでバレバレだ」
「まあ怖い。フェルナン様の悪口は、声に出しても出さなくてもバレてしまうのね」

おどけて言ってのける娘に、マーカスはおろおろするばかり。いや、ハラハラというべきだろうか。

「私の悪口だと? 心外だな」
「冗談ですって」

くすくす笑うジェシカに、マーカスが頼りなさげな声で呼びかける。

「ジェ、ジェシカ……」

戦の鬼と言われたフェルナン・タウンゼンドと親しくなったと聞かされていたが、ここまで親しい仲だとは思っていなかったマーカス。さすがに失礼なのではと、心配になってしまう。

「ジェシカ嬢のお父上ですね?」
「は、はい。先日もそれより以前も、娘がお世話になりまして……」
「お世話だなんてとんでもない。彼女は気持ちよく付き合える人でしてね。親しくさせていただいてます」
「そ、そうですか」

どうとでも取れてしまうフェルナンの言い方に、再び周囲が騒がしくなる。

「付き合いって……」
「親しくって……」

それは友人としてなのか、それともそれ以上の仲だというのか。詳しく知りたいのにこの迫力のある騎士団長を前にして、そんなことを気安く聞ける強者はこの場にいなかった。

「ジェシカ、私と一曲踊ってくれないか?」

「う、うそ……」
「あのフェルナン様が、自ら申し込んだわ」

フェルナン・タウンゼンドと言えば、夜会嫌いで有名な人物だ。どうしても断れないもの以外は一切出席しないのに、それが今夜一公爵家の主催の夜会に参加している。それだけでも驚きだったが、めったに踊らない彼が自ら女性を誘ったものだから、一部の女性たちからは軽い悲鳴が上がったほどだった。

「ええ、もちろん」

ためらうことなくにっこりとほほ笑むジェシカは、誰もがうらやむほど美しかった。

「お父上、お嬢さんをお借りしても?」
「ど、どうぞ」

断れるはずがなかった。いや、断ろうとすら思わなかった。
34歳の大人の男であるフェルナン。人柄は申し分ない。友人として娘を誘ってくれるなど光栄なことだと、その迫力に驚きつつも承諾した。