恋に焦がれて鳴く蝉よりも

 蛍里はどうしていいかわからず、俯いた。
 
 周囲に社内の人間はいない。だから、自分に
触れる彼の指から逃げる必要もない。

 けれど、どうしても、その指に応えることは
出来なかった。

 自分は、彼をさらうことが出来なかったのだ。
 あの時、自分は彼の想いから逃げてしまった。

 なのに、今さら好きだなんて、言えるわけが
なかった。

 「あの……」

 蛍里は堪らずに口を開いた。
 頬に触れていた指が、去ってゆく。

 そのことが、どうにも口惜しい。

 「ここは冷えます。早く中に戻りなさい」

 その声に顔を上げれば、そこには上司の顔が
あった。蛍里は何も言えずに、頷く。

 ようやく彼と二人になれたというのに、今の
自分には彼と話すべき言葉がないことに、気付
いてしまう。

 「それじゃ」

 黙ったまま立ち尽くしている蛍里にそう声
をかえけると、専務は借りた傘を差して雨の中
を歩き始めた。蛍里は遠ざかっていく背中を、
じっと見送る。

 いつか読んだ本に、雨の日は別れる恋人たち
が多いのだと、書いてあったことを思い出す。

 天候などの自然界の変化に、人の心は多少
なりとも影響を受けるのだそうだ。



-----どうしていま、そんなことを思い出すの
だろう。



 蛍里は雨で霞む景色の中に、彼の背中が
消えたのを見届けると、吹き抜けのロビーを
抜け、エレベーターへと向かった。








 母が病を患ったのは、僕が中学を卒業する
少し前のことだった。

 思い出の中に父の姿はなく、担当医からの
余命宣告に同席してくれたのは、子供の頃から
良くしてくれた、母方の伯母と義伯父だった。

 「やれるだけのことは、やろう」

 話を終え、病室に戻る途中の廊下で、義伯父
はそう言って僕の肩に手を置いた。

 そしてその言葉通り、彼は治療にかかる一切
の費用を、快く負担してくれたのだった。

 治療は決して楽なものではなかったが、母は
存外に明るかった。

 「小説家になるのが夢だったのよ」

 そう言って、ベッドの上で自分が綴った作品
を僕に見せてくれる母の笑顔から『死』という
言葉をイメージすることは難しく、僕はその頃
から物語というものを書くようになっていた。

 けれど、余命宣告の日を半年ほど過ぎた頃、
その日は突然訪れた。

 葬儀の手配から事務手続きのすべては、伯母
夫婦がやってくれた。僕は母が居なくなったと
いう事実に、ただ呆然とするばかりで、悲しみ
に暮れる余裕すらなかった。僕は独りだ。

 そう思いながら、ひとり縁側に腰かけていた
僕に、義伯父は傍らへとやって来て言った。

 「うちの息子にならないか?」

 ざわざわと、背後で弔問客の声がしていた
はずだったが、その声だけは、やけに鮮明に
耳に届いたのを今も覚えている。

 伯母夫婦には子がいない。
 だから、後継ぎがなく困っている。