暗がりで目を覚ました。鼻を刺激する臭いにくしゃみが続いて、ハンカチか手のひらで覆いたいのに、身体は自由にならなかった。
 椅子の上に縛られている――。
 状況を把握出来る程度には冷静で、それでも心臓が恐怖に冷えていく。

 見回してみても、ただただ暗い。壁の隙間だろうか、ちらほらと光が漏れて見えることに、安堵するようで、恐怖が増すようで。
 たくさんくしゃみをしたせいで鼻水が垂れているのを感じる。気になるのに両腕がひとつに括られているために拭き取ることも上手く出来ない。
 半ば詰まった鼻でもわかるほどに、この場所は、埃っぽく、黴臭い。気を失ってどれくらい経過したのか、口の中は乾き、喉にはイガイガとした痛みさえあった。

「怖がらなくったって、ちゃあんと帰してあげるからねえ」

 唐突に耳元で囁いた男の声に背筋が凍る。悲鳴が飛び出すかと思ったけれど舌さえも動かずに、空気を飲み込み必死に息を殺す。

「侯爵家だったらどれぐらいお金持ってんだろねえ。羨ましいなあ」

 ねっとりと、鼓膜に絡みつくような低い声。暴れる心臓とは逆に、身体は縮こまって奥歯だけが激しく震え出す。
 ひたひた頬に触れる冷たいものは刃物だろうか、目を開けても閉じても闇にしか見えない視界では何もわからない。


 理解出来たのは、拉致されたということ。――身代金目的の誘拐。


 貴族として生まれ育って、そういった事件に遭わないよう口煩く教えられてきたし、いつだってさり気なさを装い警備の者が配置されていた。そのはずだった。