ヴァリオルもまた、まだ幼ささえ残る天使だった頃だ。
 思い出す、地上に降り立つことにもそう慣れていなかったあの日、これも勉強だからと勝手に言い訳をして、あちらこちらを探索して回っていた。見るものすべてが目新しく、好奇心に胸を高鳴らせていた。

「確か……行き倒れの悪魔の、子供、だったか」
「そう、子供だった。でも私は今も昔も悪魔。悪魔のアリム!」
「大きく、なったものだな……」

 何があったのか身動きの取れなくなっていた黒い翼の子供を見つけ、それが何者であるかも考えず駆け寄って助け起こした。手持ちの水をやり、近場で調達した果実を与え、ああこれは悪魔の子だと思い至ったものの見捨てるには忍びなく、最後は救いの手を嫌がるようになったところで彼女を置いてフェンシィオに戻っていったはずだ。
 ヴァリオルにとってはそれから思い出すこともなかった出来事だったというのに、悪魔からすればそれほどに屈辱だったのか、アリムと名乗る少女は眼差しで威嚇する。

「天使なんて大嫌い。消えてしまえばいいのよ」

 すっかり立派な悪魔に育った様子の彼女はそう言い切って、とん、と未だ座り込んだままの彼の前に優雅に膝をつく。

「……だから、今のあなたは嫌いじゃないわ」
「翼を切り取られ、天使でなくなった者だからか」
「惨めで無様、いい気味ね。もっともっと堕ちていけばいい」
「お前……ッ」

 アリムの手が伸ばされ、指先がヴァリオルの頬に触れる。そのまま乱れた髪を掻き上げるようにくすぐった耳に、顔を寄せた。

「――あなたの望みは叶うわ。私が叶えてあげる」

 吐息ごと耳の奥へと吹き込まれる囁き。思わず息を止める。

「大切な人がいるんでしょう? 天使の禁忌を破ってしまうほどに。――私があなたのものにしてあげる」

 その囁きは聖母のように優しく耳朶を撫で、ヴァリオルの中へ中へと忍び込もうとする。腹の底のざわつきに目を伏せる。込み上げる感情が自身の内側で複雑に絡み合って、喉が干上がっていく。
 上げた目線の先、あまりに間近で瞳が笑う。深く吐き出した息が低く声を載せる。