午後の光りの中、イザベラとセシリオが歩いて行く。
 屋敷の裏手にある小さな森を散策するのだ。
 セシリオは、胴乱(どうらん)を肩から提げ、片手には虫取り網を持っている。

 心地よい風がイザベラの髪を揺らす。いつも硬い表情の彼女も、森の中では自然と頬が緩むようだった。
 森へ入りしばらくすると、イザベラの元に蝶々が飛んできた。

「しっ! しっ! あっちへ行けよ!!」

 オレは慌てて蝶を払おうとした。
 今までオレを飼ってきた女たちは、異常に虫を嫌っていたからだ。
 蝶型のジュエリーなどは好んで付ける癖に、生きた蝶には眉を顰め、それ以外の虫などは金切り声を上げ卒倒する女さえいた。

「大丈夫よ」

 イザベラはそう言うと、空に向かって手を伸ばした。
 その繊細な指先で蝶が羽を休めた。

「……蝶が……止まった……?」

 オレが驚いて見ると、イザベラは蝶を見ながら満足げに微笑んだ。
 すると、その蝶を皮切りにほかの蝶たちがイザベラに集まってくる。

 さながら地上の楽園に降り立った女神のようだ。
 色とりどりの蝶が、イザベラを囲むようにして舞い踊っている。
 木々の間から降り注ぐ木漏れ日が、イザベラの髪を輝かせる。

「……綺麗だ……」

 あまりの神々しさに、思わず呟き見蕩れていると、セシリオがドヤ顔でオレを見た。
 セシリオの虫取り網にも蝶が止まっている。
 しかし、セシリオは蝶を捕ろうとはしなかった。

「叔母様はすごいんです」

 セシリオは独り言のようにそう言うと、イザベラを真似るようにして空に手を伸ばした。
 すると、セシリオの指先にも小さな蝶が止まった。

「……虫が怖くはないんですね」

 オレが尋ねると、イザベラは苦笑した。

「令嬢らしくないわね。呆れたかしら」

 オレは首を振る。

「いいえ、素敵です」

 本心で答えたのに、イザベラは困ったように顔を背けた。

 オレの言葉は、まだ信じられないらしい。

 残念に思いつつ、オレはふたりを真似て空に手を伸ばしてみる。
 しかし、蝶たちはオレだけを避けた。

 蝶でさえ、オレが汚いとわかるのか――。

 オレはむなしい思いで、空に伸ばした手を握りこんだ。
 悲しさと恥ずかしさで、その手をそっとポケットにしまう。

「私とセシリオにしかこの蝶は懐かないのよ」

 イザベラは、蝶を見ながら言った。
 あえてオレを見ないのは、彼女の不器用な優しさなのだろう。

「なぜですか?」

 問えば、イザベラは困ったように口を噤む。

 オレは肩をすくめ小さく笑った。

「オレなんかに、優しい嘘をつかなくてもいいですよ」
「違うわ、嘘ではないわ!」

 イザベラは弁解するようにオレを見た。

「はい、そういうことにしておきます」

 会話が途切れ、無言になる。

 蝶の羽ばたきさえ聞こえそうな静けさに気まずくなる。

 オレが微笑むと、イザベラは悲しそうにオレを見た。
 その表情にギュッと心が痛むけど、ポケットに隠された手はまだ出すことができなかった。

 突如、セシリオが走りだした。

「駄目よ! セシリオ! そっちは、駄目!」

 イザベラが慌てて追いかける。

 小さな森だ。危険などない。

 それなのに、イザベラはセシリオを追いかける。

「今日はそこへは行かない約束でしょう? セシリオ、お願いだから戻ってちょうだい」

 イザベラが宥めるように声をかける。
 しかし、セシリオは聞こえないようふりをして先へ進む。
 オレもふたりを追っていく。

 小さな小道の先には、簡素な小屋があった。
 セシリオは迷うことなくその小屋の扉を開けた。

「セシリオ! 駄目よ。秘密だと言ったでしょう?」

 イザベラは泣きそうな声で、セシリオを呼び止めようとした。

「秘密?」

 オレがイザベラに尋ねると、彼女はサッと顔を青くした。

「あの小屋になにがあるんですか?」
「……」

 イザベラは無言でオレから目を逸らした。

 セシリオは小屋から、一本の枝を持って外へ出てきた。

「僕たちはここで、蝶のあかちゃんを育ててるの」

 セシリオの言葉に、イザベラは観念したかのように頷いた。

「虫は怖くないの?」
 
 イザベラが尋ねる。

「はい」
「青虫も?」
「はい」

 貴族にとっては怖い物かもしれないが、平民にとっては虫などなんと言うこともない。
 野菜についていることは日常だ。だれでも、青虫程度つまめる。

 イザベラはそれを聞き、ホッとため息をついた。
 
 セシリオは、持ってきた枝をオレに見せた。
 その先では、小さな青虫が美味しそうに葉っぱを食べている。
 オレから見れば、なんでもない姿だ。

「……気味悪くないの?」
「青虫がですか? まさか!」

 オレは笑う。

「……いいえ、青虫を育てている女が……よ」

 イザベラは地面に視線を落として呟いた。

「誰かにそう言われたんですか?」

 彼女は否定するように首を横に振った。
 しかし、それが嘘なことは誰から見ても明白だった。彼女は嘘が下手だ。

 多分、あの忌々しいマルチェロだ。あの男はこうやって、イザベラに呪いをかける。
 小さかった無邪気なイザベラを知っている男。その立場を利用して、呪いで彼女をがんじがらめにする男。
 否定の言葉で恥じらわせ、世界を狭め、あの男しか知らない女に育てた。

 イザベラを独占し続けてきたこと羨ましくて、オレはその呪いにさえ嫉妬する

 でも、オレはアイツと同じにはならない。

「かわいいですよ」

 オレは葉の上に乗る青虫を優しく撫でた。

 イザベラは恐る恐るオレを見上る。
 穏やかに笑ってみせれば、イザベラはホッと息を吐いた。

「……青虫、可愛いわよね?」
「いえ、可愛いのはイザベラ様です」

 オレが答えると、イザベラはボッと顔を赤くした。

「セシリオの前でやめてちょうだい!」

 イザベラが言うと、セシリオは小首をかしげる。

「叔母様は可愛いのに? 本当のことを言ってはいけないの?」

 セシリオの言葉に、イザベラはワタワタとうろたえる。

「セシリオ、ううん、嬉しいのよ? でもね、恥ずかしいの」

 イザベラはそう言って顔を覆う。
 そんなイザベラの周りに、ほわほわと蝶々が飛んでいる。

「あのね、青虫は手で餌をやって育てると、餌をくれた人を覚えるんだよ。叔母様が発見したんだ!」

 セシリオが、眩しそうに蝶を見ながら呟いた。

「ここにいる蝶たちは、叔母様が育てたの」

 木漏れ日の中、蝶たちが幸せそうに舞い踊る。

「すごいでしょう?」

 セシリオは自慢げに微笑んだ。

「はい、とても素晴らしい方です」

 オレは大きく頷いた。
 
「……もう……、ふたりとも……買い被りすぎです」

 イザベラは顔を覆ったまま、小さくぼやく。その首は真っ赤に染まっていた。