物音一つしないものだから、僕はてっきり無人の廃墟なのでは、とも思いかけていたところなのだけれど。
 ともあれ、存在が気付かれてしまった以上は、返答しない訳にはいかないだろう。

「あ、と…こ、神前(こうさき)(まこと)です。この春から大学一年で、今日こっちに引っ越して来たもので、挨拶周りとか散歩とか、何か色々兼ねて…」

 嗚呼。悲しいかな。初対面の人と話すのが苦手なのは、大人と呼ばれるような年になってもあまり変わらないんだな。
 もっとも、ことこの声の主に関しては、未だ対面すらしていない訳だけれど。

『あらあら、それはわざわざご苦労様です。少々お待ちください、すぐにそちらへ行きますね』

 と、そう言ったすぐ後で、カタンと木と木の擦れるような音がした。その答えは椅子を引いたようで、次いで足音が近付いて来る。
 しまった。挨拶周りと言ってしまった手前、何か手荷物の一つでも持っていなければいけないようなものだけれど。

 今になって、小さな嘘を吐いた自分を激しく恨む。
 そんなこちらの胸中や知らぬ向こう様は、そうこうしている内、扉の前まで来てしまっていたようで。

 ゆっくりと扉が開かれる。

「すいません、気が付かないで。いらっしゃいませ」

 ふわりとした口調で顔を覗かせた女性は、《清楚》という言葉をそのまま絵にしたような、透き通った存在感を持っていた。
 髪はロングのストレート。白のカーディガンを羽織った下は、紺色のロングワンピース。緩くずれた肩口からは素肌が覗いている。ノースリーブというやつだ。
小さく整った顔には、髪と同色縁の眼鏡。

 いわゆる、大人の女性だ。肌も驚くほど白い。
 などと思いつつ、つい見回している間に、当人からすれば闖入者も同然の僕には「あの」と控えめに声がかけられた。

 僕は慌てて我に返って、

「す、すいません、タオルとか持ってなくて…」

 そんなことを口走ってしまった。
 一瞬間驚くような表情を浮かべられて、僕はつい、やってしまったと思った。

 けれどもその女性は、

「ぷっ……ふ、ふふ…」

 咄嗟に口元を押さえてしまう程、盛大に吹き出した。