客席の片隅で私は涙さえ流していた。

 改めて自分がこの世界の奥深さに魅せられた事に気付かされた。

 ストリップ……

 単なる裸踊り

 全裸になり、大勢の男の前で猥褻なポーズを取り見世物になる……

 大概の人間はストリップをそういう認識で捕らえるだろう。その通りだ。

 だが、そうではない部分を見つけた時、人間は大きな感動を受ける。

 そこに理屈は存在しない。

 観たままのもの、生に伝わって来るものが、観る者の心を揺り動かし、感動をも与えてくれるのだ。

 若くて可愛いとか、綺麗なだけのストリッパーのステージからは、そういったものは生まれない。

 いずみリカのステージを観て涙を流す位に感動はしたが、後々考えてみると、それは消え行く者への惜別の情から生まれた涙だった。

 彼女のステージは確かに素晴らしかった。

 それはストリップというよりも、ダンスそのものであり、本来あるべきエロスはかけらも感じられないものであった。

 踊り子達は、その殆どがダンスが上手くなりたいと願い、単なる裸踊りにはしたく無いと思っている。

 それはそれで間違ってはいない。

 自分を向上させて行く為に日々、ダンスのレッスンに明け暮れる踊り子も少なく無い。

 デビューして日の浅い踊り子の深夜レッスンに朝まで付き合い、泣きながら振り付けを覚えようとする姿にカルチャーショックを受けたからこそ、自分は照明というものを疎かに出来ないと感じた訳である。

 だが、ストリップに於ける本物の感動は、それ以上の何かが無ければ生まれて来ない。

 お金を払う客の反応が全てを物語っている。

 酔っ払った勢いで劇場にやって来る客達がそういったステージを観て、自分の想像を超えたものを目にした時、間違い無く押し黙る。

 裸になる度に嬌声を上げ、時には非常識な態度を取ろうとする酔客がである。

 つまらないからではない。

 その姿を照明室から見れた時、共にその時間を共有出来た事に、劇場の照明マンは言葉に表せない喜びに浸り、踊り子との一体感を噛み締める。

 だが、なかなかそういうステージに出会う事は少ない。


 平成十年八月のお盆興行の出演者が決まったのは、その二週間前の事であった。