◇ 海の見える丘で ◇

 村を出てからは草原の中の一本道を進んだ。

 エリッヒは周囲を警戒していたが、ヒバリのさえずりが響くだけで、人の気配すらなかった。

 前方に小高い丘のうねりが現れ、その間に光輝くものが見えた。

「ほら、あれが海だ」

 エリッヒの指す方を見てもよく分からない。

 水平に区切られた空と何かが輝いているだけだ。

 海を見たことのないエミリアには不思議な光景だった。

「大きな湖みたいなものだろ」

 エリッヒの説明は役に立たなかった。

「わたくし、湖も見たことありませんもの」

 ナポレモの街とその周辺しか知らなかったエミリアにとって、これまでの旅路で見た村や町ですら驚きの連続だったのだ。

「向こう岸が見えませんね」

「海の向こうは砂漠のある大陸だな。異教徒の商人達の国だ」

「世界は広いのですね」

 エミリアが駆け出す。

 エリッヒも後を追った。

 丘の上まで来ると、その先は断崖になっていた。

 遙か下に街と海が見える。

 青い海に白い壁の街が映える。

 命を狙われるような辛いこともあった。

 怪我の傷もまだ癒えていない。

 だが、美しい風景を前にしてエミリアは喜びを感じていた。

 かたわらのエリッヒに抱きついて口づける。

「お、おい」

 当惑顔の男にもう一度口づける。

 今度は男もエミリアを抱きしめた。

 二人はお互いを求め合い、高まる感情に身をゆだねた。

 草の上に倒れ込んで空を見上げる。

 エリッヒが覆い被さってきた。

 だが、それ以上、男は求めようとはしなかった。

 額をくっつけあったまま、目を閉じ、男は動かない。

「つ、疲れたな……」

 そうつぶやくと男はエミリアの隣に仰向けになった。

 それっきり一緒に空を見上げているだけだ。

『死神の手形』のことを気にしているのだろうか。

 エミリアは男の手をつかんで自分の胸にのせた。

 お世辞にも豊かとは言えない起伏だ。

 ジュリエの言葉を思い出す。

『身も心もゆだねたくなる殿方がきっと現れます』

 それはエリッヒではないのだろうか。

 今のこの気持ちは幻なのだろうか。

 受け止められることのない愛情なのだろうか。

 目を閉じて、つないだエリッヒの手のぬくもりを感じとる。

 自分の気持ちを疑うことはない。

 エリッヒが好き。

 エリッヒを愛している。

 ただ相手の気持ちが分からないだけだ。

 だからといって自分に嘘をつくことはない。

 ただ相手の気持ちは自分にはどうにもならないだけだ。

 雨を止めることも降らせることも、雲を動かすことも沈む太陽を引き上げることもできない。

 自分にできるのは自分を信じることだけだ。

 自分に嘘をつかないことだけだ。

 エミリアは涙を流さなかった。

 ただ空がまぶしくて目を閉じただけだった。