淡々と答えながら、そこで一瞬、男はわずかに眉をひそめた。

「……物を指し示す便宜上の名なら、ある。ハクコだ」
「はくこ……?」

それが名字なのか名前なのか。
いや、便宜上と断りを入れるあたり、正式名でないことは確かだろう。

咲耶が閉じ込められていた場所は木々が周囲を覆っていた。
一見して、村外れにひっそりとありそうな、何かを(まつ)ってある社のように見える。

ハクコ、と、とりあえずの名乗りをした男は、色素の薄い髪を腰近くまで伸ばし、後ろで一つに結んでいた。

男の身を包むのは、その昔、公家の者が着ていたとされる狩衣(かりぎぬ)の一種である水干(すいかん)
だが、その下からのぞく衣服は、指貫(さしぬき)と呼ばれる(はかま)ではなく、細身の筒袴だった。

着丈の短い白い水干に黒の筒袴と、なんとも奇妙な取り合わせだが、すらりとした長身に、その姿はよく似合っていた。

(私も、こういうカッコのほうが動きやすいのに……)

ハクコの後ろを黙って歩きながら咲耶はそんなことを思った。

何しろ普段、大股で歩くことになれているせいか、動きの制限される着物は、歩きづらくて適わない。
そして、用意されていた履き慣れない下駄(げた)にも、指の付け根が痛み始めていた。

「あの……まだ歩きます?」
「もうすぐそこだ」

言って、ハクコが指し示す向こうには、松明(たいまつ)の灯りらしきものが見える。
ひそひそと人の話し声も聞こえてきて、そこが目的地なのも解ったのだが──急に咲耶は、不安にかられた。

(どうしよう……。なんか、怖い……)

先ほどまで感じなかった恐怖が、(せき)をきったように咲耶を襲う。

自分はなぜ、言われるがままに、この男のあとを付いてきてしまったのだろう?
いや、それよりもなぜ、車に乗って家路についていたはずが、こんな見知らぬ山奥を、歩かされているのだろう……?

(夢をみてる……とか?)

その可能性は高い。あの瞬間、事故にあい意識を失って──。

「何をしている。ついて来い」

立ち止まって考えていると、ハクコが抑揚のない口調で呼びかけてきた。
条件反射のように言葉に従ってしまい、咲耶はふたたび歩きだす。

「──ほう。今度の娘御は、なかなかしっかりしてそうじゃな」

頭の上のほうからした声は、古めかしい言い回しに不つり合いな、少年と思わしきものだった。

咲耶は、びっくりして足を止める。