「犬朗」

静かな声音に、犬朗は顔を上げる。人の身に姿を変えられた異形の犬の眼が、正面を見据えていた。

「っ!」

視線の先にいるのは、自分に新しい名前と“眷属”という名の『居場所』を与えてくれた“主”だった。

犬朗たちがいるのは『こんびに』なる店の、臭い油を動力にする鉄の箱車を停め置く場所。
その広い敷地のさらに通りを隔てた先に、咲耶の勤める『けえき』を売る店があった。

「さ──!」

かがみこんでいた犬朗は、思わず立ち上がって片腕をぶんぶんと振ってみせようとする。
が、傍らの犬貴に頭の上から押さえつけられ、あえなく地べたに撃沈した。

「この駄犬めッ。我らに課せられた“禁忌”を忘れたか!」

鋭い声音は、なぜこんな離れた場所から“主”を見守る羽目になったかを、思い出させる。

(くっそ、あのカグツチとかいうヘビの化けモンめ……!)

犬朗たちが使った“神宝具”は、効力を発揮したのち、本来の持ち主に戻る仕組みとなっているそうだ。

本来の持ち主とは──“神獣ノ里”の長たるヘビ神。
犬朗たちは白い“神獣”との再会を喜ぶ間もなく、“主”よりも高位にある神の裁きを受けることとなった。

「“眷属”とはいえ、もとは『不浄のモノ』。この世界において、なんじらはただの『化け物』なのだ。
しかるべき定めにより我が滅しても良いが……“主”を想うその心に免じて、条件付きでの滞在を許そう」

そして、煌ことヒノカグツチという名の幼い姿の神は、自らが祀られている社の()り人に犬朗らが使役されることを課したのだった。

(つーか、化けモンに化けモン呼ばわりされたくねぇっつーの!)

煌は『こちらの世界の住人』と同じような姿(なり)をして犬朗たちの前に現れた。

世話になっている少女の話では、
「はい。たまにフラッと現れては消えてしまわれます。この世界で『探検』をするのがお好きなようですよ」
とのことだった。

巧妙に人の間を行き来していることが窺え、犬朗はゾッとしたものだ。
普通でないにも関わらず、普通にしてみせるなど……そのこと自体が異常だろう。
自分たちのこの世界での異様さは、むしろ『普通』なのだと逆説的に犬朗は思う。