澄んだ空気のなか、夜空を駆け抜ける。
半透明な水の龍が藍色の空を飛翔する様は、地上からは彗星のように映るのだろうか。

本来なら冷えて凍えそうな夜気も、猪子の『力』のためか、咲耶はそれを感じていなかった。
いや、仮に感じていたとしても、心が肉体から解離した状態では、真の意味での体感はないだろう。
そんな咲耶をちらりと見やり、赤茶色の髪を向かい風にたなびかせた猪子が言った。

「咲耶殿? 白いトラ神を恨んではなりませんよ? あの者は、道理をわきまえていただけなのです。
そして、咲耶殿の心の奥底にある想いに、気づいてしまっただけ」

呆然と、ただ涙を流し続けていた咲耶の胸に、すべり落ちた言葉。

「心の……奥底……?」

真っ白な世界へ、墨が落とされるように。無防備な世界へ、小石が投げこまれるように。
猪子が咲耶の胸のうちに、踏み込んできた。

「そうです。咲耶殿ご本人ですら、その事実を片隅に追いやって、気づかぬふりをしてきたのではありませんか?」

猪子の細い目が、放心状態から戻ったばかりの咲耶を射ぬく。

「自分が居なくなったことで、心を痛める存在がいる、ということを」

突然、目の前に、むき出しの心を引きずりだされた気分となる。
(ふた)をして隠し続けてきた都合の悪いものを暴かれた、そんな心地だった。

猪子の指摘は正しい。確かに、咲耶の心の片隅に、いつもあった想いだった。

見て見ぬふりをして、いままで過ごしてきた自分。
だが、罪悪感のようなものをかかえながらも、それを上回る想いが咲耶のなかにはあったのだ。
他人から、薄情だと軽べつされようとも。

「……幼い少女なら、帰りたいと泣き暮らすこともできたでしょうに。
なまじ年を重ねると自分の感情よりも周りを気にして、その場においてふさわしい態度をとらざるを得なくなりますからね」
「違います! 私は、帰りたいだなんて、一度も思ったことはありません!」

観光気分でいた当初、見るもの聞くものが新鮮だった。
何より、“花子”である椿(つばき)も“眷属”らも、咲耶を大切に扱ってくれた。

「みんな……必要としてくれたんです、こんな私のことを」

何ももたない、自分を。初めから、すべてを受け入れてくれていた。

「だから──」