「ああ、まるっきり、これっぽっちもねぇな。
お前には解んねぇだろうけど、俺は俺なりに、咲耶サマをガッチリ護れる体勢で一晩過ごしただけだっての。
……そりゃ、ちっとばかしの役得感があったのは事実だけどな」
「やはり、貴様ッ」
「あーっ、もう終わりっ! これで終わりにして! 出発しよ、出発!
はいコレ、“主命”だからね? ふたりとも解った!?」

延々と戯れ合っていそうな虎毛犬たちに、咲耶がここぞとばかりに“主”ヅラを披露するや、否や。

「あ」という短い言葉を最後に、咲耶の“眷属”のうち一方が消え失せた。
むなしく空をつかむ黒虎毛の犬をなぐさめるように、咲耶はもう一度、同じ台詞を繰り返す。

「じゃ、今度こそ出発しよっか、犬貴?」





獣道とはいえ、久しぶりに平坦な地を歩きながら、咲耶は、前を行く白い水干をまとった黒い甲斐犬の背を見つめていた。

「左手に深めの(くぼ)みがございます。お気をつけて」

時折、咲耶を気遣う言葉を投げかけ、ちらりと視線を向けてくる以外、黙々と歩く犬貴に、咲耶はいたたまれなくなり声をかけた。

「あの~、犬貴? 私のこと、考えなしのアホな“主”だって、がっかりしてる?」
「……いえ」

わずかな間と短く返された答え。咲耶には、それが肯定に聞こえてしまう。

先ほどまでは犬貴の説教が、単に心配性の小言のように思えていたのだが。
そのことで彼のなかの咲耶評が下落したかと思うと、情けなさと寂しさが募ってきた。

落ち込みそうになる自分をなんとか奮い立たせ、咲耶は口を開きかける。
しかし、一瞬前に咲耶の弁明を待たずして、犬貴が言葉を発した。

「貴女様に失望するなど、滅相もございません」

ぴたりと止まった足と、背を向けられたまま放たれる、落ち着いた声音。

「貴女様のお優しすぎる心根が、我らとのあいだの主従の壁を、たやすく無くしてしまうのだと解っております。
ですが、前にも申しました通り我らは元を正せば不浄のモノ。闇をかかえた存在なのです。
不用意に心を許したり、必要以上に心をくだくことは、咲耶様の御為にはならな──」
「そんなことない!」

皆まで言わせず、咲耶はカッとなるままに、犬貴の言葉尻を押さえつけるように否定する。
以前、咲耶自身が、和彰から向けられた言葉を思いだした。

(あの時、和彰も……こんな気分だったのかもしれない)