咲耶が深い眠りについてしまっていた間に、季節は早春に移り変わろうとしていた。
耳に心地よい(うぐいす)のさえずりが、屋敷の外から聞こえてくる。

犬貴が約束通り咲耶たちに語る場を設けたのは、咲耶が体調を元に戻してからだった。

「──私は以前、綾乃(あやの)様……ハク様の親神様に、お仕えしておりました」

うららかな陽差しが照らす中庭に面した濡れ縁。
そこに腰かけた咲耶のひざ上に転転、右隣にはあぐらをかいた犬朗、少し離れた左隣に正座しているのは、たぬ吉。
そして、咲耶の真向かい、地面に片ひざをつき、軽く頭を下げた犬貴がいた。

「その人が……前に犬貴が話してくれた『彼の御方』ね?」
「はい」

ためらいながら問い返した咲耶に対し、落ち着いた声音でもって犬貴がうなずく。

なぜ“神獣の里”を知っていたのかと疑問を投げかけた咲耶に、目の前の“眷属”は、かつての想い人を通じて知り得たのだと答えてくれた。

あの時は、犬貴の私的な感情に、自分が好奇心を向けてしまったことを悔いたのだが──。

「道幻は綾乃様の“花婿”でした。しかしそれは名ばかりで……実の伴わないものだったのです」

努めて冷静に語ろうとしている風に見えた犬貴だが、そこで吐き捨てるように低く言い切る。

犬朗が、口を開いた。

「あ~……、お前があの坊さんを気に食わなかったのは解るけどよ。実が伴わないってのは、言い過ぎじゃね?
実際、真名は伝えられたみてぇだし、旦那っていう『実』を結んだワケだしよ?」

犬貴にしたら、道幻という“花婿”は、面白くない存在だったろう。
そう思って、妙な納得の仕方をした咲耶の心中を代弁するかのような、犬朗の指摘。

じろり、と、隻眼の虎毛犬をねめつけたのち、精悍な顔つきの虎毛犬は咲耶を真っすぐに見返した。

「道幻は、綾乃様に真名を伝えてなどおりません」
「え? だって……」
「綾乃様という御名は、ご自分で名乗られたものなのです」

咲耶は目をしばたたいた。隣で犬朗が「自称かよ」と、あきれたようにつぶやく。