自分のもとへと呼び寄せるため、初めて告げる真名(なまえ)。咲耶は、少しの緊張を抱えながら白い“神獣”の名を口にした。

──音もなく、さりとて特別な兆しもなく。冷たい美貌(びぼう)の青年に“化身”した『白い神の獣』が、咲耶たちの前に現れた。

すらりとした長身にまとう、着丈の短い白い水干と、黒い細身の筒袴。
腰近くまで伸びた色素の薄い髪の先々にさえ、神々しさを感じさせる(たたず)まい。
咲耶を抜かし場にいた者たちがひれ伏したのを、超然と見届けている。

「ハクの旦那……」

しぼりだすような声音に反応して、青みがかった黒い双眸(そうぼう)が隻眼の虎毛犬に向けられた。
まばたきだけで場にいる者を圧倒し、(おそ)れを抱かせる存在であると、咲耶は初めて実感する。
──自分が『彼』に出逢った時、最初に抱いた感情が『畏怖(いふ)』であったことを、知る。

「咲耶サマを、頼みます……」

自らの“眷属(けんぞく)”に近づき、和彰の片手が伸びる。こうべを垂れた赤虎毛の犬の額を、長い指の先が突いた。

「──休め」

言葉と共に消え失せた手負いの甲斐犬を思い、咲耶はようやく我にかえった。

「和彰! 犬朗はケガしてたのよ? どうしたの!?」
「……あの者をいま側に置いても役には立たぬ。時がくればおのずから姿を現すだろう」

抑揚のない返答に理解が追いつかない咲耶の前で、和彰は平伏した虎次郎を見下ろした。

「形ばかりの礼などいらぬ。顔を上げろ。なぜ私の“花嫁”を“眷属”の護りもままならないこのような山中に連れてきた」
「──おそれながら」

すっと上体を起こし、しかし頭は下げたまま、虎次郎は言った。

「この度の御役目は、咲耶様ご本人の了承を得て、お連れした次第にございます。咲耶様の、民への深いご慈悲があればこそかと」

どこかで聞いたような台詞を、いけしゃあしゃあと言ってのけた男に、咲耶の頬が引きつった。