君と笑顔の日

部屋に入ると、物音に気付いたのか陽奈子が目を覚ました。ぼんやりした表情で状況を確認しているようだ。
僕を見つけると少し安心したように、あどけなく笑う。
近頃は呼吸も辛そうで、酸素吸入の為にマスクをしていた。ドラマや映画でしか見慣れていなかったまさしく病人のそのいでだちは現実を深く突き刺す。
酸素マスク、繋がれた沢山のチューブ、機械音。
少しでもそこに陽奈子を見つけたくて手を伸ばしてその手に触れる。
冷えた指先に、弱々しい力が“今の陽奈子”。
愛しくて、大好きな、僕の陽奈子。

「もうすぐ、千夜の、誕生日なんだ。私ねぇ、千夜がねぇ、心配なの……」

マスク越しに小さな声で呟く。
夢の続きでも見ているのか、千夜ちゃんの小さな頃を思い出しながら、今の千夜ちゃんを想いながら。

「千夜はねぇ。要領がいいように見えて、実は、たまにとても、不器用なところがある、から……」
「うん」
「千夜の歌がね、私、とっても、すき」
「そっか」
「あとね、お父さんも、お母さんも、千夜も、すき」
「僕のことは?好きじゃないの?」
「学くんはね、学くん。とっても、だいすき、だから、絶対、幸せになって。ありがとう」

僕は答えられなくて、頷きながら言葉の代わりに強くその手を握った。それを受け止めて、陽奈子はゆっくり目を閉じて再び微睡みの中へ。
しばらくそれを眺めて、病室を後にした。
談話スペースで電話していたお母さんに会釈して、病院を出た。
夏の盛りで、じとっとした空気が纏わりつく。

お母さんは再入院してから、付添で病室に寝泊まりしている。家のことは千夜ちゃんとお父さんがしているのだろう。
残業をほとんどせずに帰宅している姿もよく見る。職場には話してあるから、人が残っている中で帰宅してもそれを悪く思う人もいない。ただひとり、とうの千夜ちゃん本人が申し訳無さそうにするだけ。
そういう時は僕がさっさと追い出してしまう。
家族の負う負担は僕にはフォローができない範囲だから。そのやり取りを見て、事情を知らない誰かが贔屓だとか付き合っているんじゃないかとか、ひん曲がった解釈で実はいじめてるんじゃないかとかいう噂も聞いたことがある。それに関しては別に仕事に支障が出る距離感の人間ではない人がたまたま見て言っていただけで、この部署では滞りないから僕らは何も気にしていなかった。

以前に“妹になるかもしれない人”と話したことがある同僚は、僕らのことを切なそうに見ていることを知っている。見ているだけで、何も言ってこないのは彼なりの優しさなんだろう。