それからも私はいくつかボイスドラマ作品を企画し、脚本を書き続けた。もちろん、Pixivでの小説投稿も続けながら。
ボイスドラマの脚本以外にも動画制作にも携わるようになった。そんな日々が9ヶ月ほど続いた頃。私はシナリオ班の班長を任されることになった。
任されること自体は嬉しかった。だが同時に、務められる自信がないのも事実だった。
私は昔から自分に対して自信がなかった。それは今でも変わらない。
創作の面でも、自分の作品に対してとにかく自信が持てないのだ。
人とコミュニケーションを取ることも極度に苦手だった私は、とても班長を務めあげられる自信がなかった。
でも、目をかけてくれた鈴木代表の期待に応えたい、という気持ちもあった。むしろ、そっちの気持ちの方が大きかった。
どこまでやれるか分からなかったが、私はシナリオ班 班長としてやってみることにした。



 UGPで順調にいく一方、リアルでは色々あって、私は"うつ病"を発症していた。
詳しいことを書いていると長くなるのでここでは割愛するが、その頃私はもう生きるのがとことん嫌になっていた。

――生きているのと、死んでないのは違う

と、どこかの誰かが言っていた。その頃の私は"ただ死んでないだけ"だった。死ぬことができないから仕方なく生きている。そんな感じだった。
毎日妄想の中で何度も自分を殺していた。方法を変えながら何度も、何度も――。
そんな私をこの世に繋ぎとめてくれていたのがUGPの存在だった。今だからはっきり言えるが、もしあの時UGPに入ってなかったら、今頃私はもうこの世にいなかったと思う。
鈴木代表がいたから、UGPがあったからこそ、私はなんとか踏みとどまることができた。UGPだけが私にとって唯一の居場所のように感じていたのだ。



 話は少し変わるが、子供の頃、私は父に何度も本気でぶたれたことがある。
小学1年の授業参観に父が来ていた。私は自分の学校の教室に父が来ている、ということに対して舞い上がり、何度か後ろを振り返った。父は険しい顔で私を睨んでいた。
授業が終わり、私が父の元に駆けつけると、私はみんなの前で父に思いっきりぶたれ、何度も後ろを振り返ったことを怒られた。学校の外まで聞こえるような大声で。もちろん、私は大号泣。
私は父を怒らせないことだけを考えながら日々過ごしていた。その時の私には父という存在は怖い存在でしかなかった。
学校でもいじめられていた私はとにかく笑うことにした。笑っていれば嫌われることもないし、怒られないんじゃないか、という子供ながらの安易な考えである。私は必死で"いい子"を演じ、子どもながらに気を遣っていた。
この頃から私はよくどもるようになった。それが原因で自分から話しかけることがずっとできなかった。コミュニケーションが極度に苦手なのもこの存在が大きい。自分の中でどもることが大きなコンプレックスの1つとなっていたのだ。



 私が小学5年の頃、父は胃ガンで死んだ。39歳だった。胃を全摘したが、その頃には既にガンが全身に転移してしまい、手がつけられない状態だったらしい。不思議と涙は出なかった。悲しいという感情もなかった。
私の記憶の中には父に褒められた記憶というのは存在していない。怒られた記憶しか存在していないのだ。
それが原因かどうかは定かではないが、私は人よりも"承認欲求"が強いと自覚している。
今でも"怒られる"という行為に関しては、一種のトラウマのようなものがある。



 話がだいぶ脱線してしまったが、鈴木代表に団員としての働きを認められ、褒められた時は本当に嬉しかった。私は初めて褒められた子どものように内心喜んでいた。
リアルでの仕事、UGPでの団員としての活動、そして、シナリオ班 班長としての活動をしながら、私は1日1日をなんとか乗り切っていた。



 10ヶ月後――。
私はまだなんとか死んでいなかった。いや、死ねずにいた、という方が言い方としては正しいのだろう。それもこれも、やはりUGPの存在が大きかった。
その頃、UGPでは某動画サイトで鈴木代表と2人で、もしくは1人でネットラジオもするようになり、活動の幅は以前より更に広がっていた。Pixivへの小説の投稿も忘れてはいなかった。
ある日、鈴木代表からまた話があった。それは"UGPの副代表になってほしい"というものだった。
これにはさすがに私も驚いた。しかし、なぜ私なのだろう、という疑問もあった。所属しているクリエイターさんの中には私より優秀な人はいくらでもいる。その中でなぜ敢えて私なのだろう、と。
「周りを見渡しても、俺の変わりに代表を任せられるのは現状、赤鈴さんしかおらん」
この言葉に私の胸は震え、高まった。そして、心に深く刻まれた。
私は即答でその話を引き受けた。私の中でUGPという存在が更に大きくなった瞬間だった。



 シナリオ班 班長として、また、副代表として、ちゃんと務められているかどうかは分からないが、今でもUGPでの活動は変わらず続けている。
こんなことを言うと大げさかもしれないが、UGPは私に"生きる希望"を与えてくれた。
私はUGPのおかげでほんの少し"生きる"ことができるようになった。ほんの少し前を向けるようになった。
沢山いる井の中の蛙の中から私を拾い上げてくれたUGPは、鈴木代表は、私の中で恩人そのものだった。私はUGPに、鈴木代表に救われたのだ。



 今では"新たな宿願"へ向け、動いている最中だ。それについては、また機会があれば話そうと思う。
大恩に報いるためにも、宿願を果たすためにも、今はまだ死ねない。

――たとえカッコ悪くても、這ってでも生きる努力をしてみよう

私はそう心に誓ったのだ。
いつの日か、みんなと心の底から笑いあえる、その日まで。



死ぬ時に後悔しないように。笑って死ぬために――。