「婚前旅行なんて、どこに行くって言うの。
お金もないし、遠くになんて行けないじゃない」



するりと手を抜いて、座っていたおしりの部分の汚れを払い落としながら、ちひろがそんな疑問をこぼす。



「うん、そうだね」



明日のことを考えると、今からどこかに出かけることは不可能だ。

なんの手配もしていないし、今日中に戻って来ないといけないし。

でも僕だってなにも考えていなかったわけじゃない。



「遠くには行けないけど、でもこの街には僕たちの思い出がつまっているだろう?
だから、思い出の場所を巡ろう」



ほんの少し冷たい風が頰をかすめる。

瞳にかかる前髪を元に戻しながら頭に思い浮かぶのは、幼い頃足を運んだ駄菓子屋に、坂道を登った先にある高台の公園。

ここ最近はぱったりと行かなくなっていたけど、いい機会だし、のぞいておくのも悪くない。



「そして市役所に行って、婚姻届をもらってこよう」



ね? と小さく小首を傾げる。

ちひろは柔らかそうなワンピースをきゅっとつかんで、うつむくように頷いた。



その様子に僕は眉を下げた。

浮かれる僕とは違い、ちひろはどうしたって冷静になってしまうんだろう。

その事情を知っているからこそ気をそらしてあげたいと思うけれど、それはとても難しい。



刻一刻と迫りくるその時、僕にはなにができるだろう。

ちひろに、なにを残してあげられるのだろうか。