妖しく溺れ、愛を乞え

「行かなくて大丈夫だ。すまん、驚かせてしまったね。ちょっとした疲れだ」

「いや、しかし!」

「騒ぎ立てたく無い。隊員には話してくるから、このまま帰って貰おう」

「は……専務、本当に?」

 ふらつき無く立ち上がり、スーツの裾を払った。切れ長の目で周囲を見渡し、社員に視線を送る。

「みんな、落ち着くんだ」

 殺気立っていた社員の目が穏やかになって行くのを、目撃する。また力を使ったな。

「持ち場に戻りなさい。俺は大丈夫だ」

「そう……ですか。じゃあ」

 支店長は胸をなで下ろしている。正直、支店に出張中の専務が倒れて病院へ運ばれたなんてことになったら、一番気を揉むのは支店を統べる彼だからだ。(実際動くのは末端の人間だけれど)

「してんちょー! 救急隊の方が……あれ?」

 立っている深雪を見て、救急隊を案内してきた社員が目を丸くした。状況が飲み込めないといった感じだ。無理も無い。そこへ深雪が歩み出る。

「ああ、俺が話す。すまないね、心配かけて」

「患者は?」

「あ、あの」

 混乱した現場とはこのことだ。担架を持った救急隊員数名が、バタバタと廊下を進んでくる。それを見て、深雪がすっとそちらへ向かった。

 あたしはそれを呆然と見ていて、支店長も部長も営業も、初乃さんも動けないでただ見ているだけだった。

 隊員になにやら説明していて、軽く頭を下げ、手をすっと上げてパチンと鳴らした。

「ああ、大丈夫なようですね。では、我々はこれで……」

 人を乗せない空の担架を持って、隊員は戻って行ってしまった。また力を使ったらしいのは見ていれば分かる。

 救急車が無音で去っていくのを窓から見ていた。みんなは落ち着きを取り戻し、それぞれのデスクへ着く。

「みなさん、騒がせてしまってすみません」

 静かな声で、深雪が頭を下げた。
 頭を上げてくださいと、部長が深雪を促した。

「専務、お疲れのようですから、今日はもう帰られては如何ですか。特別、急用も打ち合わせもございませんし……。ねぇ、支店長」

 同意を求められ、支店長が頷く。ここは帰って休んで貰う判断を下すところだろう。帰れって言って。ほら早く。

「そうだな。専務、帰ってお休みください」