妖しく溺れ、愛を乞え

 今日、深雪は支店長にくっ付いて1日居ないとか。会社に居ない方が、こっちは気が楽だ。そんな風に思ってごめんよ。だって本当なんだもん。

 帰りが早いかどうかは別にして、今晩は買い物をして夕飯を作ろう。深雪より上手くはできないけれど、疲れて帰って来るのにせめて美味しい食事だけは用意してあげたい。チーズサンドだけでは足りない。
 そこまで考えて、はてと止める。

「……彼女か」

 まぁ……仕方ない。仕方ないってなにが。正確には彼女じゃないし、そういう約束を交わしたわけでもない。というか、なんでも無い。あたしはなにも言っていないんだよ! ああもう。こんなこと考えると頭痛がする。

「ねぇねぇ……」

「は、はい?」

 初乃さんがコソコソと寄って来て小声で言った。手には布巾が握られている。

「今朝、専務と出勤してなかった?」

「え?」

「駅前で、一緒に歩いているところを見たの」

 背筋が凍り付く。ニヤニヤしている初乃さんに、動揺を読み取られないように、必死で取り繕った。
 油断した。いや、最初から止めておけば良かった。うかつだった。

「あ、いや、偶然会って、たまたまですよぉ。み……専務も同じバスだったみたいで」

「同じバスだったの? 春岡さん電車じゃなかったっけ」

 ……駅前って言っただけで誰も電車なのかバスなのかなんて聞かれていない。やばい。墓穴を掘った。

「ああああたしも、今日はたまたまバスで」

「たまたまが重なったと」

「は、はい」

「分かった。ハーゲンダッツで黙っててあげるね」

「へ、はい?」

 ハーゲンダッツ。あたしも食べたい。

 ウフフと笑って、初乃さんは「布巾、洗ってくるね」と走って行ってしまった。完全に勘違いをしている。誤解だ、誤解だよ、初乃さん。変なことを言って歩くようなひとではないけれど。

 墓穴は掘ったものの、余計なことは言っていないはずだ。

「言っていない……大丈夫……」

 眠気で正確な判断ができなくなっているのかもしれない。コンビニでドリンクでも買って飲めば良かった。