「あ、ありがとうございます……」

特別な言葉でもなんでもない。
世間一般では、仕事でだって使いまわされてる単語だ。
それでも私にとってはすごく特別な言葉で、それを口にした今、どうしようもなくドキドキとして緊張した。

未だに抱きしめてくれてる斎藤さんは、お礼の言葉に何かを言ってくれるわけじゃなくて。
代わりにポンポンと後頭部を撫でられた。

スーツに鼻を押し付けた体勢にいい加減落ち着かなくなってきた頃、少し冷静になったせいか、また、この独特な香りに気づいた。

「送ってく」

ほぼ同時に身体を引き離され、斎藤さんに言われると、ついまたあの言葉を出してしまいそうになった。

そんなことしたら、学習能力ない人間だと思われちゃう! しかもこの短時間で!

一度言葉を飲み込んで、それから仕切り直して口にする。

「ありがとうございます」

チラッと斎藤さんを見上げてみたら、ほんの少し笑っててなんだか嬉しくなった。

帰り道は、お互いの距離を少し保って並びながら歩いていく。
斎藤さんからはもう何も話してはくれなくて、どんな心境なのかとハラハラしていた。

だけど、多分怒ってるわけではないのだろうと思うようにして、私は勇気を振り絞る。

「あ、あれですね。斎藤さんは、本当に斎藤さんだったんですね」

緊張のあまり、日本語おかしくなってる。

自己ツッコミをしても、言った言葉は取り消せないし、あとはフォローするしかない。
あわあわと動揺しながら続ける言葉を選んでいると、突然隣に並んでいた彼が「ぷはっ」と吹き出した。

「それ、どういう意味? 俺は俺だよ。誰だと思ってたの?」
「いえっ。あの、職場の斎藤さんは、特に別の顔をしてるといいますか……」
「ああ。確かにちょっと違うか」

いや、『ちょっと』じゃないです。

心の中で即ツッコミを入れて、私はひとつ咳払いをしてから続けた。