――触るな!
(えっ?)
鋭い声が耳朶に届いた。
思わず手を引っ込めたとき、鈴のような清らかな音色が転がったのを聴く。
はっとして視線を上げると永近がいなかった、十津川の姿もない。
違う、いなくなったのではない、景色が一変していた。
思葉は満刀根屋ではない場所にいた。
目の前に誰かがいる。
十二単だろうか、沁みるような緋色の唐衣が目に飛び込んできた。
着物を着たり見たりする習慣はないが、高貴な身なりであることはなんとなく分かる。
裳と一緒に広がる黒髪が美しい。
けれども肩から上は、薄暗くてよく見えない。
(……誰?)
「こら!」
永近が怒った声を発した。
それに驚いて肩をわずかにはねさせ、思葉は引っ込めていた手を握りこんだ。
気付くと視界は満刀根屋の中のものに戻っていた。
十津川がびっくりした顔で永近を見、その永近は眉を吊り上げて思葉を見ている。
「柄だけを持つやつがあるか、ばかもん。
鎺(はばき)はあるが、万が一鞘走ったらどうなるかもよう考えんのか。
それで誰かに怪我させたり、自分が怪我したりしたらどうする。
やってからでは遅いんじゃぞ」
永近は普段は穏やかだが、その分怒るととても怖い。
しかも怪我などが絡めばその迫力は凄まじいものになる。
思葉は首をすくめて素直に謝った。
「ご、ごめんなさい」
今度は両手できちんと鞘の部分を掴んだ。
少しだけ目を凝らし、周囲の音に気を付けてみる。
さっきの声は聴こえなかった。
十二単を着た女性の姿も観えなかった。