「……この前、」
彼の問いに答えたくないと思いながらも、唇は自然と動いていた。
「そこの交差点で、轢き逃げがあって」
口にするだけで恐ろしい、あの夜のこと。
「通報したから、加害者は捕まったみたいだけど……」
話したところで何かが変わるわけじゃない。優しい言葉をかけてほしかったわけでもない。肺腑をえぐられるような痛みに耐えられそうになくて、話すことで気を紛らわせたかった。
「嫌なの。事故とか、本当……聞くのも、見るのも」
まるで過去が実態を持ったかのように、背後にある交差点が存在感を増していく。甲高いブレーキ音。鈍く響いた衝撃音。悲鳴に、ゆっくりと拡がる血。横たわる人。駆け寄る人たち。後ずさる、私。
いっくんの帰りを待っていた日と同じ。寒空の下、震えながら朝までうずくまっていた。
「あんな思いは、あと一度だってしたくない」
言い切っても胸の痛みが治まることはなく。ひたすらに苦しくて、つらくて。
「……きみが通報したの?」
「そんなことはどうでもいいから、お願いだから、危ないことはしないで」
上擦った声で訴えた。とにかく、ガードレールに腰掛けるなんてバカな行為をやめてほしかった。
「そっか。うん……わかった」
もうしない、と約束してくれた彼の声は、今の私にはとても明るく聞こえた。
「でもさ、あれだよね。献花はないし、無事なんじゃない? その人」
悪気はなかったのだと思う。やけに声が弾んでいるのはきっと、この重苦しい空気を少しでも明るくさせようとした彼の気遣い。けれどそれは逆効果だった。
「何それ……」
どうしようもなく湧き上がるのが怒りなのか哀しみなのか、区別すらつかなかった。



