花立に菊を、水鉢に水を入れ、白あんをパイ生地で包んだ菓子を供える。淡々と手順を踏んでいき、お線香をあげた私は腰を落とし、手を合わせたあと瞼を閉じた。


こういう時、何を思うべきなのか迷う。冥福を祈ればいいのか、感謝をすればいいのか、近況報告をすればいいのか。お父さんはなんでもいいんだって教えてくれたけれど、私はいまいちピンとこなくて、会いに来たよとか元気にしてるよとかくらいで、今回も伝えることはほとんどなかった。

そっと目を開けても、お墓参りに来たんだなって、それだけ。

お母さんが空から見守っているとは思わないし、おばあちゃんに届くとも思っていないからかもしれない。墓参りはあくまで風習であって、文化であって、拒む理由もなければ信心深いわけでもないけれど、魂の存在や死後の世界を信じていないとか、そういうことでもなくて。

生きて、存在していたと確かめられるひとつの場所だから。故人に対して、他にできることがないから。私は倣っているだけなんだと思う。


「……生きてたらな」


墓前でこんなこと、罰当たりかな。でも生きていたなら、聞いてみたいことがたくさんあるんだ。

5歳の時おばあちゃんが亡くなって、4年後にはお母さんも亡くなった。今よりずっと小さくて、もう逢えないことだけが悲しかった。

快活でありながら厳しかったおばあちゃんは逞しい女性そのもので、穏やかでいつもにこにこしていたお母さんは、優しいを視覚化したみたいだった。どちらも私とは似ていない。それでも血は争えなかったようだから、歳を重ねるごとに聞いてみたいことが増えた。

勘がいいと言われていたふたりは、本当に未来を夢に見たことは一度もなかったのか、とか。直感が血筋なのであれば、それを力としてうまく扱えていたのか、とか。親族以外の人に打ち明けたことはあるのか、とか。どうしてこんな力を持って生まれてきたんだろう、って……。

墓前で物思いに沈んでもしょうがないのに、つい考えてしまった自分に呆れる。問いかけても答えは返ってこないからではなく、私は異端だったから。事例のないことに答えを出すのは難しいと、身をもって知っていた。


「じゃ、また来るね」


後片付けをし、多少身軽になった私は誰に挨拶するでもなく霊園をあとにする。もともと狭い街だけれど、年末ということを差し引いても墓参りに来ている人は僅かだった。


しなくてもいい心配だったな、とおもむろに駐車場へ向けていた視線が一台のハイブリットカーへ釘付けになる。白のSUV。その近くに立つ人影は、間違いなく私を見ていた。