私を引き留めたのに、斎藤さんはなにも言わないから、こっちから声を掛けるしかなかった。
それでも彼は、まだ何も答えてくれなくて、なんだか居た堪れない気持ちになってしまう。

それから数秒して、ようやく斎藤さんは私の手を放した。
疑問の目を向けても、やっぱりなにも言ってはくれない。

一体なんだろう。そして、手は解放されたけれど引き留められたのは事実だし、このまま帰っていいのかわかんなくなる。

困り果てて斎藤さんを見上げると、彼は意外にも目を逸らすどころか真っ直ぐと私を見ていて驚いた。
普通なら、こんな微妙な空気にさせた張本人なら目を泳がせてもいい気がするけど……。

ただ、見つめられる。ひとときも見逃さないように。

私は思考全部が彼に奪われそうになりつつも、どうにか声を絞り出す。

「おかしな方ですね……なぜあなたは、私の前で時々仕事中のような顔じゃなくなるんですか?」

そう。今、向けられている彼の瞳は、〝もうひとり〟の瞳だ。

そういう視線も、表情も、話し方も、あなたは仕事中にしていないでしょう?
それとも、もしかして、ここの従業員の誰かにも同じようにその姿を晒しているの?

聞いてしまった後だからもう遅いけれど。
本音を言うなら、その答えを聞きたいわけじゃない。

私が求めてる答えだけを、聞かせて欲しいだけだった。

しばらく視線を交わしたまま、お互いに口を閉ざしていた。
そして、とうとう斎藤さんが目を逸らすように視線を斜め下へ向ける。それから、彼は私の求めている以上の言葉を口にした。

「野原茉莉に、オレを見て欲しいから」

耳がおかしくなったんだと思った。
それとも、ずいぶんとリアルな夢を見ているものだと……。

「じゃ」

唖然としたまま立ち呆けている私の頭にポンと手を一度おいて、斎藤さんはスッと横切って去って行ってしまった。

私は思わずスマホを手から落としてしまう。
でも、それをすぐに拾い上げようともしなかった。

足元で転がったスマホに見向きもせずに、今触れられた箇所を両手で覆ってその感触をしばらく反芻していた。