で後日に、大木さまからとんでもないお話をお聞きしたのでございます。俄かには信じがたいお話でございましたが。
 大木さまが仰るには、あの国賊である足立三郎めが、刑務所から出所していたとのこと。使い走りの雑魚だった故に、さほどの刑に服することもなかったようでして。ただ、こともあろうにその出所日が、妻が百貨店に出かけた日でございました。
「まさかとは思うけれども、二人の逢引…?」
 と、仰られて。まさしく青天のへきれきとは、このことでございましょう。
「しかしもう……」

「えぇえぇ、あなたの気持ちは
分かりますよ。小夜子さんは、正夫さんの奥さまですものね。でもねえ、こんなことを言ってはなんですけれど、正夫さんに嫁いだ折には、もう刑務所でしたものね。いえいえ決め付けることはできません。えぇえぇ、できませんとも。ねぇ、あたしの勘ぐりかも知れませんしね。いえ、きっとそうですよ。妙子ちゃんというお子さんもいらっしゃることだし。ただ…その妙子ちゃんがね…どうにもねえ」
 奥歯に物のはさまったような言い方でございます。どうにも気になりますです。

「大木さま、どうぞ仰ってください。何が気になられているのですか?」
「正夫さん。あなた、ご存じないでしょ? あのアカのことは」
「はい。名前程度でございます。もちろんお会いしたことなど、一度も」
「でしょうね、そうでしょうとも。実はねえ、こんなことを言っていいものかどうか。でもあなたは知らなくちゃね。万が一にもあたしの想像が当たっていれば、ほんとに正夫さんがお可哀相ですからね。あのね、妙子ちゃんですけれどね。正夫さんに似てらっしゃる所はあるかしら? 大変失礼な言い方ですけど、まるで似てないのよね」 
 上目遣いで、それは申し訳なさそうに仰います。
「はい、それはわたくしも思います。小夜子にそっくりで、わたしも良かったと思っております、はい」
「そうね、そう思うのも無理はないわね。でもね、あのアカを見知っていたならば、そうは思われないでしょうね」
「えっ? と、ということは…」
「いえね、あたしがね、そんな風に感じるだけのことですからね。ほんとのところは、神様とね、それこそ小夜子さんだけがご存知なのですから」

いっそ何も知らぬ方が良かったと、思わないでもありません。しかしご親切心からの大木さまでございます。お別れする際には、「どうです? 梅村さん、離縁なさっては。こう言っては何だけれども、小夜子さんの仕打ちはあまりのものと思うけれども。なあに、後のことは心配ないから。お店がね、あんた一人では成り立たないことなど、百も承知です。内の娘がね、後添えに入っても良いと言っているんだけれども」などとおっしゃっていただいて。
 ありがたいお話ではございました。しかしわたし、離縁などとは思いも寄らぬことでございます。お気持ちだけを、と頭を下げてございます。そうでございましょう? 妙子のことを考えますと、可哀相で。あの国賊が父親だなどと知りました折には…。考えるだけでも、ぞっと致しますです。

 ここで少し大木さまのことをお話しておきましょうか。なぜにこれ程までにわたくしのことを気遣っていただけるのか、皆様ご不審のことでしょうから。
 先にもお話したと思いますですが、お世話になりましたご主人さまのお店のお隣にお住まいでございました。ご主人さまとも家族同然のお付き合いをされていたお宅でございます。
 ご職業ですか? はい、官吏さまでございます。なんでも、お父上も官吏さまでしたとか。ですので、大木家といえば、あのご町内では知らぬ者がいないお宅でございます。ご家族さまは、四人家族でいらっしゃいます。
 ご長男さまはもう独立なさっておられます。いえいえ、官吏さまではございません。大工さんでございます。えぇそりゃもう、ひと悶着ありましたそうで。

「勘当だ!」
「あぁ、結構! 逆勘当してやるよ!」
 売り言葉に買い言葉でございましようけれども、逆勘当などという言葉があるのでしょうかな。しかし、あの戦争で家を失ってしまわれた大木さまに「俺が建て直してやるよ」と、声をかけられたのです。
 奥さまは大層のお喜びでしたが、どうにも大木さまのご機嫌が悪く「お前のような半人前に建て直してもらうくらいなら、このバラック小屋で十分だ」と追い返されてしまったとか。中々に頑固なお方でして、奥さまも嘆いていらっしゃいます。
「清子に婿を取って、この家を継がせればいい」
 というのが、大木さまのお考えのようでございます。

 しかしいくら大木家と言いましても、正直あの清子さまでは……。器量は、はっきり申しまして妻の足元にも及びませんです。
 まあそれより何より、足がお悪いのですよ。足を引きずって歩かれる姿は、好奇の目にさらされておられます。
 で必然、外出なさることもなく、日がな一日お部屋の窓辺にお座りでございます。実はわたしの部屋が、清子さんの窓から丸見えでございまして。夏の暑い夜には窓を開け放しておりますので、寝姿を見られてしまいます。
 申又一枚で寝ておりますわたしでございます。初めの内こそカーテンの陰からこっそりと覗かれていた清子さんでしたが、ある日のことでございます。

 庭先でひと休みしておりましたわたしに「お腹を冷やさないの?」と、声をかけてくださいました。
 そしてまた「肌が白いのね、女の人みたい」と、いたずらっぽく笑いかけてもくださいました。
 それがきっかけで、毎日のようにお話をさせて頂くようになりました。
「マーちゃん、マーちゃん」
 と呼んでくださるようになったのは、程なくでございました。
 あれ程に人見知りなされる清子さんが、わたしだけとは話が弾みますです。多分、わたしを男と意識されていないのでございましょう。いえいえそれ以上に、下男のように思われているのでしょう。小夜子お嬢さまのわたしに対する振舞いを見ておられる清子さまですから。

「小夜子さんも、ちょっとよね」
 と、よく慰めのお言葉をかけてくださいましたです。
 自慢話をするわけではございませんが、こんな無学で不細工なわたくしめですが、「娘を嫁に貰ってくれないかね」と、大木さまより有難いお申し出を頂きましてございます。
 はい。お店の繁盛ぶりをごらんになり、「奥を任せられる者がいるのじゃありませんか? お足を扱うご商売ですしね」と、奥さまからお声ををいただきました。有難いお話ではございますが、恐れ多いこととご辞退致しました。

「清子もねえ、納得してくれたんだけどね。残念だね、それは。ま、すぐにと言う話でもないから、じっくり考えておくれでないかね」
 再度お言葉を頂きましたですが「とんでもないことです、それは。清子さまは、天女さまでございます。お忘れください、そのようなことは」と、固辞させて頂きました。
 残念がられておられましたですが、分かって頂けましたです、はい。えっ? 本心でございますか? そ、それは…。まあ、よろしいではないですか。悪い気は致しませなんだですよ、それは。致しませんが、実は…。
 右足がお悪くて、あしを引きずられて……。は? あゝ、そうですか。お話しておりましたですか、そうでしたか。いえいえ、日常生活に困るほどではございませんよ。普通にお暮らしですから。

 はい? そこのあなた、やはり女性は鋭いですな。正直に申しますれば、小夜子お嬢さまに淡い恋心のようなものを抱いておりましたです。とんでもない! 結ばれようなどとは、とんでもない。そのようなことは、露ほども考えたことはございません。
 ではなぜ、お嬢さまに懸想するようになったか? と…。有り体に申し上げますと。実は、お嬢さまがまだ五歳の折のことでございました。
 いえ、分かっておりますです、はい。子どものたわいないざれ言だということは。

「おとうとができなかったら、おたなはどうするの? いいわ、あたしがおたなをやる。そうだわ、正夫をおむこさんにして、お菓子をつくらせればいいわ。ね、ね、正夫。いいでしょ、お父しゃま。それがいいわ」
 もうそれはそれは、目を輝かせておっしゃるのでございます。そして旦那さまも目を細められて、「そうだな、そうだな。そうしてくれるかい」と、仰られたのでございます。
 もうきょう天動地とは、このようなことを申すのでございましょうか。まだ知っておりますですよ。青天のへきれきとかいう言葉もございますでしょ。無学なわたしでも、世間一般の常識程度のことは知っておりますですよ。

 えっ? も、もちろんですとも。旦那さまのお言葉を信じたわけではございません。その程度の常識はわきまえております。ただ、その日以来、お嬢さまは、わたしにとってかけがえのないものとなられましたです。
 女神さま、観音さまでございます。それはそれは、大切にお仕えいたしましたです。お風邪をひかれた折には、寝ずの看病をさせて頂きましたです、はい。
 いやあ、そこのお方。女、明智小五郎でございますな。参りました、参りました。