「と、とにかく早く帰るぞ。
お前が家出した、って旦那が探してたぜ」
「やっぱり、菊之助をけしかけたのは野郎かい」
さも嫌そうに、春芝は茶屋に居たおりと同じく鬱屈としてうなだれた。
立ち売りがほとんどいない、長屋の密集地帯にて。
年頃の良い男の声が小さく反響していた。
「だから、何度も言ってるだろうがよ。
夜通しでおめえの趣味を俺に語るな!」
「悪魔は基本的に夜行性ではなかったかね?」
「知らねえよ、そんなもん。
こじつけだろ」
あれこれと論争しているのは、段田と春芝である。
いくら楓河岸あたりの道より人が減ったとはいえ、さすがに騒々しい。
菊之助の頭上を、ありとあらゆる暴言が飛び交う。
何があったのか。
時はほんの少しばかり前にさかのぼる。
菊之助と春芝は、古びた長屋が連なる所で段田と落ち合った。
段田と対峙するや「げっ」と、春芝はえぐい形状の虫を手にしたような目つきになった。
「春芝。
また一人でぶらぶらとどこかへ消えたな」
段田はたいそうご立腹なのか、そこに仁王立ちする。
お前は嫉妬深い夫かよ、と菊之助は言ってやりたくなった。
「いつも言うが、あんたは金勘定もできないのに江戸の町をひとりほっつき歩いて、翌日まで帰ってこない。
だから一人で行くなと言っているんだ」
やたら当たり障りのある説教をしてくる段田に受けて立ち、春芝も閻魔の形相になってどっしりと構えた。
「脳味噌だけが武器の唐変木めが、とやかく指図するんじゃねえやい」
やはり春芝も人目を気にしたのか、あまり大声を出さぬように注意しているようだった。
が、されど春芝の語調は荒んでいる。


