そして人にあらぬ声で、


「ぐるるるるる……」


 と、威嚇した。


 獣……。


 百合は異様に長い男の犬歯に、小さく驚愕して呟きそうになった。

 まさに、その相前後。


「おう、ちょいと待ちなあ!」


 野太い男の声が投げかけられた。

 それに驚いたのか、屋根に留まっていた小ぶりな鳥が飛び去ってゆく。

百合は後方に一瞥をくれる。

 声の主は、身の丈が七尺ばかりの巨漢だった。

武蔵坊弁慶を意識してなのか、無精ひげを生やして修験者の恰好をしている。

鼻が低く髪は鬣のようになり、戦乱の世から時を越えてやってきた武者のような風体である。

しかしその眼は、まあるで子供のように快活で明るい。

 修験者はずんずんと地鳴りのような足音を立てて歩み、男のうなじをむんずと掴んだ。


「こら春芝!
いい年して、女をいじめるなよ」


 図体にはあまりにも似合わぬ高い声で、修験者は春芝なる男に喝を入れる。

相手は見知らぬ男のだが、どこか聞き覚えのある響きの声だった。

 はて、と首をひねる百合に背き、急ぎの用でもあるのか、修験者はせかせかと茶屋から離れようとする。

強制的に引きずられていく春芝は、修験者に何か言うでもなく、左手で鼻から上を覆うだけであった。

 そして去り際に、


「おい看板娘。
今の言葉、忘れんなよ」


 捨て台詞でも忠告でもない、目的がつかめぬことを言い募り、男は自分の足で修験者の後について行った。