ぬるり、と。なにかが長屋の中で蠢いた。
灯篭のおこぼれの光が些少に照らすだけの長屋の中は暗い。大量の蛇でも放たれているのか。
菊之助は目をこすった。蛇のようなものはざわりと波打ち、うねり、ざわめく。
「おやあ……」
長屋の奥から、若い女の声がする。
「おや、おや。わっちを買うてくれるのかえ」
聞けば、女の声色は粘りけがあって生々しい。菊之助は刀の柄を静かに握る。奥の薄闇から、純白の着物がぼんやりと浮いた。
件の奇怪な女が姿を現した。
見るや否や、段田の予言通り、菊之助の内にあった謎が悉く解明された。女の何が奇怪なのか。
なぜ今までに仕事を請け負った浪人たちが、尻尾を巻いて逃げ出したのか、を。
あそこは、妖花屋は、
(妖退治専門の、口入れ処というわけか!)
女は全身が垂れ下がった頭髪に覆われていた。先ほど蛇のように見えたのは、三丈余りまで伸びた漆黒の頭髪だったのだ。
女の顔は完全に髪に掩蔽されてしまっている。
菊之助は唾を飲む。一度、どこぞの口入れ処で用心棒の仕事を寄越された覚えがある。
だが運悪く、偶然にも菊之助を雇った大店に盗人が押し入ったのだった。そのおり、小太刀を抜いた盗人と菊之助は対峙した。
この状況は、当時のひりひりとした、死闘の寸前の感覚を思い起こさせた。平穏な時代には不似合いな感覚だ。
女の髪は奇っ怪にもぞろぞろと地を這いまわっている。
なんだか、妖じみていた。
「こいつは……ふむ、毛女郎か」
段田は例の書物を開き、顎に触れて美顔を輝かせた。何とも喜ばしげに、だ。


