(そうだ、旦那)
今更ながら、菊之助ははっとして段田の許へと駆け寄る。
段田は漆黒の血を流し、ただでさえ白い顔がよりいっそう青白くなっている。
「旦那、大丈夫かっ」
どう見ても大丈夫ではない。
それなのに菊之助はこの世の終わりのような顔になり、段田の頬を軽く殴りつけた。
「旦那ってば!」菊之助は叱咤する。
胸から杭を抜き、血の流れていない胸に手を当て、ぐいぐいと揺さぶる。
段田の様子は一変もしない。
「……おい菊之助、よせ」
控えめに、春芝が止めに入る。
「もうよせ。そんな事をする必要はねえ」
「なんで」
菊之助が勢いよく反論する。
「うるせえよ。こいつは死んでねえ。ほれ」
菊之助の必死さに苛立ったのか、春芝は語調を荒らげると、段田の骸を踏む。
すると段田の骸が、突然に身体を横にしていじけた。そして、ふん、と右頬を膨らまし、
「私の幻影は完璧だ。たとえ春芝が相手でも、見破られるはずはない」
と、自ら口を割った。
春芝は段田の体を踏みつけたまま腕を組む。
「悪魔が杭に打たれて死んだりするか?脆いにもほどがある。普通の武器で悪魔が死ぬなんざあ、あまりにも不自然だろうが」
どうやら悪魔は、体に致命傷を負った程度では絶命しないらしい。
「ちぇっ。敵味方も含め、五感すべてに影響する幻術をかけたというのに。台無しだ」
まさか春芝に見破られるとは心にもなかったのだろう。悪態をつくや、段田は頬を撫でながら身を起こす。
唯一、状況を把握しきれず、段田の胸に開いていた穴が塞がっていくのを見守っていた菊之助は、我に返って驚愕した。
「そりゃあ……つまりその傷も、偽物の俺も、お前が作った幻だったのか⁉」
「そうだとも」
あっさりと認めた段田に、菊之助は怒髪を逆立てた。敵を騙すには味方からと言うが、敵を騙すために味方まで巻き添えにするとはけしからぬ。
「心配して損した!今度に旦那が死んでも、絶対に助けてやらないからなっ」
菊之助は口から火を吹く。しかし段田はその程度で動じるはずもなく、高々と嘲笑した。
「私に助けてもらっておいて、よくもまあそんな事が言えるものだね。君に殴られたせいで、頬がひりひりするよ。ああ痛い痛い。せっかく幻術で串刺し公の気を君から逸らし、勝機を与えてやったというのに。恩を仇で返すとはこのことだね」
段田の悪口は長い------。
だが確かに段田が作り出した幻影・偽菊之助のおかげで、ヴラドは偽物を本物と思い込み、案の定にせものを殺し、油断していた。だから自分は、その首を狩ることができたのだ。段田の助け舟のせいで余計な心配をしたとはいえ、それに救われたのに変わりはない。
菊之助はいったん鎮まって、ぎこちなく礼を言った。
「そいつあ……かたじけない」
珍しく抗ってこない菊之助に感心したのか、段田は膏末ほどだが進歩した子供侍の頭をそっと撫でる。
「少しはましになったじゃないか」
それだけ言って、段田はすぐさま目の色を変え、床に転がっているヴラドの首に差し向う。その御首は不自然な事に、切り口を足代わりにして達磨のように立っている。
「かああーっ……」
喉に絡んだ痰を出すような声を発し、ヴラドの首が黒煙を吐いた。
眼球が目の窪みからこぼれ、粘質の糸を引く。唇は歪んで嘴に変化し、まるで牛若丸伝説にある天狗のようである。吐き出された黒煙は瞬く間に人の形となって抜剣する。
(死んじゃいなかったのか)
化けもんが。菊之助は鯉口を切る。
先手を打ったのは春芝であった。髪を数本抜き、その束を両手で伸ばす。たちまち束ねられた黒髪は、淀んだ鈍色をした二本の短刀となった。春芝は剽悍な動作で二刀を振り回し、ヒト型の黒煙を苦も無く斬り裂いてゆく。春芝の短刀も面妖なもので、これに斬られたヒト型は次々と塵芥と化し、僅かな風で掻き消える。まさしく人外の業だ。
春芝が凄まじすぎて目立たないが、剣技では菊之助も劣らない。身体を捻り、嫋やかにヒト型を斬り伏せる。ヒト型どもは先ほどのものと同じで、量産型の脆い分身だ。不死身でなければ、敵ではない。
杭や矢は飛んでこない。無尽蔵に武具を作り出すほどの力がもう残っていないのだと思しい。ヒト型どもが菊之助の刃の餌となり、すかさず段田が操る藍の鬼火に呑まれても、その黒煙からぞくぞくとヒト型が出てくることはない。
しかし、最初に放出されたヒト型の数が多すぎた。
(塵も積もればなんとやら……)
菊之助は体力を大幅に消耗していた。いくら相手のヒト型が雑魚であっても、数が多くては骨が折れる。菊之助は、ヒト型の剣が肌を突いたのか、足に刻まれた菱形の傷を押さえて眉を苦痛に歪める。少し深く刺された。
しかし戦場では休む間などない事を、菊之助は思い知らされる。背後からヒト型どもが剣を振りかぶってきたのだ。どれだけ菊之助が深手を負っていても、相手からすれば敵が動けないことは絶好の勝機でしかない。
菊之助は膝を曲げ、刀身を盾にヒト型の剣を受けた。
「うぐう……」両刃のツルギは重い。
二本の剣を受け止めた菊之助は、歯を噛みあわせて呻いた。追い返そうとすると、菱形の傷から血が湧き出る。
そこへ、ひゅ、と風がヒト型どもを掠める。
刹那、ヒト型どもが灰となって崩れた。
「人の小娘相手に数人がかりたあ、バケモンが廃るぜ」
崩れるヒト型の後ろから春芝が現れる。
春芝は役者の真似でもするかのように、男気のある言葉で吐き捨てた。
「ありがとう、助かった」
「おめえの姉さんが角を生やして怒ってるからな。死体は説教なんざ聞かねえだろう」
どうやら百合は、菊之助に説教をするつもりでいるらしい。しかし春芝の言葉から、百合は生きているのだと確認できた。説教どうこうは別にして、菊之助は安堵する。
「それじゃあ、死んでも死ねないや」
菊之助は姉の生存を知って活気づいた。傷口が出血することなどお構いなしで、菊之助は草を薙ぎ払いようにヒト型どもを斬り捨て、ヴラドの首めがけて進撃する。颯爽と走る菊之助の後を鬼火が追う。時に狛犬、時に竜の形に変わる鬼火は、菊之助を追い越し、子供侍の行く手を阻むヒト型どもに食らいつく。
床を這う鬼火の残滓を飛び越えて、菊之助は遂にヴラドの御首まで到達した。刃圏にその首が入ると、菊之助はさらに剣気を滾らせる。
刃の先端が鬼火の明かりを弾くと、化物の首は深い憎悪に嘴を動かした。
「おのれ、憎らしき小僧め!」
けたたましく鳴き、最期の力を振り絞ってか、化物の首は多量の黒煙を一挙に吐き出す。
(やられた)菊之助は直後、黒煙に包まれた。
息ができない。逢魔ヶ刻と同じだ。この煙は鉛のように重く、息を詰まらせる。
それでも菊之助の刃は振り下ろされた。
黒煙を一直線に斬り裂き、鋭利な刃先が突き出る。
「おおおおっ」
裂帛の気合いと共に、二つに割れた黒煙の塊から子供侍が刀を宙に翳した。
その時------ヴラドは瞠若した。眼前にいる少年剣士の首筋には、鮮やかな朱で、逆さの五芒星が描かれていたのだ。逆さの五芒星は“悪魔”の印だ。
------こやつらは、悪魔だったのか。
そんな驚愕に彩られた。しかしそれを言葉にしている時間は与えられない。
菊之助は、いともたやすく化物の首を斬り下ろした。唐竹割りにされた首の中から何かが噴射された。飛び出したそれは、なんと串刺し公の顔を映した、乳白色の死魂であった。
「出たな」
唖然としている菊之助の横に寄り、段田は何時も肌身離さず所持していた書物を大きく開く。
すると。
紫紺の妖光を纏った解読不能の文字列が、開かれた書物の頁から蜷局を巻いて浮かび上がった。そして段田は、書物に向かって妙な言葉で語りかけた。
ディアボリカ、ターバ、ガーディテ
エゴデイビ、パラレ、ピュリメンタム、グイス
セド、クォウス、ヒック
ノクト、エト、ローガレット
このような言葉だった。


