ヴラド三世、と呼ばれた男は、じっと黒煙に身を潜めている。分厚い壁のような黒煙からは、杭やら矢やらが休む間もなく放たれる。
「やろうっ」
放たれた杭を叩き斬り、菊之助は痺れる腕を力ませた。玉鋼でできた刃は重い。菊之助はそれでも踏ん張っている。
段田はどこに忍ばせていたのか、菊之助の等身ほどもある細長い木の棒を取り出す。どう見ても木偶の棒だ。少なくとも竹刀ではないだろう。襲い掛かる飛び道具めがけて、段田はその貧弱そうな棒を振った。
「ローレン」
竹のさざめきにも似た段田の声と共に、不可視の波動が杭や矢を薙ぎ払う。その波動は勢いを保ったまま黒煙へとぶつかった。しかし、黒煙の壁はそうとう頑丈なようだ。僅かに黒煙が散っただけで、串刺し公にはまったく届いてはいない。
「化け物もどきのくせに、なかなかやる」
段田ときたら呑気なもので、杭を避けながらいけしゃあしゃあとした顔で打開策を練っている。しかもどうやら、元人間であるヴラドを侮っているようだ。
(旦那の奴め、気を抜いてるなっ)
刀でただ飛んでくる物をかち割るしか術のない菊之助にしてみれば、余裕綽々で戦っている段田が恨めしくて仕方がない。
段田はそんな菊之助の胸中を読み取ったのか、不貞腐れた貌でひらりと跳躍した。
「ふん」
軽業者のごとく宙を舞った段田が棒をひと振りすると、どこからともなく白刃の雨が黒煙に降り注いだ。黒煙の壁は、十あまりの手裏剣のような白刃に斬られて分散する。が、それらは消えるどころか、みるみるうちに顔の無きヒト型となって、漆黒の剣を抜くや菊之助と段田に斬りかかった。
菊之助はたまらず怒号を上げた。
「旦那のばかっ!」
「悪かった、悪かった」
合掌して謝る段田だが、ちっとも悪いと思っていないことは菊之助にも見て取れる。
しかしこのヒト型、剣こそ持っているが斬撃には慣れていないようだ。それが剣を振り翳す頃には、既に菊之助によって真っ二つに斬られている。
白銀の軌跡が宙を滑り、菊之助の刀が暴れる。ヒト型を次々と斬り伏せ、数を減らしてゆく。
「エクスレイト」
段田は口をもぞもぞと動かし、棒で床に弧を描く。刹那、床から蒼の焔が突き上げ、菊之助に斬られたヒト型の欠片を呑みこみ、焼き尽くしていく。
「愚か者めが」
侮蔑を孕んだ青い瞳が、黒煙の隙間からちろりと覗く。その瞳には、最後の一体である雑魚を斬り裂く少年剣士の姿があった。
今は杭も矢も飛んでこない。菊之助は疲弊した腕をおろし、黒煙の壁を睨み付ける。
菊之助の視線の先にある黒煙が揺らいだ。そこから紅毛碧眼の貴公子の面が現れる。
きちちっ------と百舌のさえずる声が、静寂の中で軽快に響く。しかし声の主である百舌はどこにもおらず、なんとそれはヴラドの口から洩れていたのだった。
(あの野郎自身が、百舌だったのか?)
菊之助は突拍子もない仮説を立てる。思い返せば、町人に扮したヴラド三世は、百舌の事を「私の化身」と称していた。
もし百舌の正体がこの異邦の貴公子だとすれば、古着屋の神隠し騒動、毛女郎を含めた妖たちの証言は関連性の見出せないものではない。妖たちが言う南蛮風の男とは、このヴラド三世であり、百舌とはこの貴公子の一部だったのだ。
だが、菊之助にはひとつ、どうしても気になる疑問があった。
「おい、南蛮野郎」
菊之助はあろうことか、戦いの最中で敵に話しかけた。
「いま、この国は鎖国していてなあ。外の国のモンは国に入れてもらえないんだ。しかも、その瞳にその髪色、明らかにお前は南蛮人だ。それなのに、どうしてお前はお縄にならないんだ?それも魔法とかいうものでどうにかしたのか?」
長い問いかけに、眼前の貴公子はうんともすんとも言わない。
「そりゃあそうさ。あの男は、もはや人ではないのだから」
段田が代わって答え、小脇に抱いた書物を開き、その一頁を破り捨てる。
「ヴラド三世は、もう百五十年以上も前に戦死している、いわば悪霊さ。死してなお満たされない欲望から魔力を得て、魔物に成り下がったものだ。怨霊よりもたちが悪い」
今まで以上に凄惨な毒舌を繰り出す段田に、一本の杭が発射される。当然、相手の気に障ったのだろう。
段田は首を傾けて杭を避けると、ますます凍てついた瞳でヴラドを刺し貫いた。
「なんだ。異議でもあるなら、妖を攫うに値する理由を言ってみろ。私を納得させてみろよ」
この悪魔は人間の事などどうでもいいらしい。
段田は自身が愛でる妖に危害を加えられたことによほど腸を煮えくり返しているのか、虎の尾を容赦なく踏みつける。
瘴気に満ちた黒煙が息巻きはじめた。
菊之助は段田の悪口に思わず肝を冷やす。
「口の減らぬ化物め」
ぞろりとした声で、ようやくヴラドが言葉を返す。
最初は菊之助のほうが、この男に対する憎悪が激しかったのに、今では段田の毒舌に圧倒されてしまったのか、当初の勢いは失せてしまっている。叩き斬ってやる、という殺意が、いつからか、倒さなくてはならない、という決意に変わっていた。
「口が減らないだって?欲の減らないあんたには言われたくないね」
すかさず、段田がヴラドをあざ笑う。
しかしヴラドも恬として言い返す。
「欲があってこそ、ではないか。欲が無くては人は生きられぬ」
「あんた、もう死んでいるじゃないか」
「人として生きたことのない化け物には、分からぬ話だ」
菊之助からすれば、この言い合いはまるで子供の喧嘩である。人外同士のくせに、口喧嘩は人間と大差がない。
「いいや、分かる。なぜなら私も、今は人と同じように、己が好むものを欲しているのだから」
段田はやけに誇らしげである。ヴラドも段田も、己の欲望のために動いているのでしかない。
「意思のある者なら、欲があって当然さ。ここに居る純朴そうな侍も、自分の大事な大事な姉上を助けたいという欲望に突き動かされて、悪魔などというものに命を捧げた」
素晴らしいじゃないか。
段田はわざとらしく両腕を翼のように広げる。段田は正義感ゆえに戦っているのではない。あくまで自分のために戦っている。また、一見は義憤に駆られて動いているような菊之助でも、やはり欲に任せていたのだ。
これは決して人のための戦ではない。
欲と欲の、ぶつかり合いだ。
欲、と言ってしまうとどうしても嫌な印象があるが、どうしてか、菊之助には決して汚いものとは思えない。
欲がある。それは自分が人間であるための証拠のように感じられた。
「私たちの欲を叶えるためには、あんたの欲は邪魔だ。だからいま、こうしてあんたと戦っている」
ヴラドに勝てるという根拠もないのに、段田は高らかに宣言している。
「粋がるな。如何にして我が正体を突き止めたのかは知らぬが、生きて出られるとは思うなよ」
菊之助はもとより、確実に生きて帰ることができるとは思っていない。百合さえ救えればよいのだ。
一方で段田は、人間もどき相手に死ぬ気などさらさらないらしい。さらにヴラドを挑発する。
「如何にして?私を誰だと思っている。ソロモンの悪魔として数えられる異相の大公爵だ。私ほど、人の心と学術に精通する悪魔はいない」嘘か真か、段田は偉そうに胸をそらす。
(今まで人の事なんか気にかけなかったくせに)
そう言ってやりたくなる菊之助の脇を、ちょいと黙れと言わんばかりに、段田は肘でつつく。
「この侍と書物の山を整理していた時に、ふとあんたの伝記を見たのだよ。串刺し公。江戸の妖たちが言う百舌の“はやにえ”に似ていると思わないか」
ヴラドに語りかけているのか、それとも菊之助に語りかけていたのか、それはこの悪魔のみぞ知るところだが、菊之助は段田の言葉に「お、おう」答えた。
「あらかた目星は付いていたが、どうしても、あんたの活動拠点が分からなくてね。それにしても、鳥居に異界への入口を作るとは、なかなか斬新じゃないか」
褒めている場合ではなかろうに、段田は延々と喋っている。
「そして最初の獲物として毛女郎に狙いを定め、この弁天島ごと鳥居を乗っ取り、狩りを始めたんだろうよ。これまでに串刺しにした妖の悲鳴は、心地よかったかな?」
段田は皮肉を込めて言う。
段田の“狩り”という言葉に、菊之助は居竦まる。とどのつまり、百合もあの男の獲物の一つだったのだ。百合も串刺しにされるかもしれない。
菊之助は安否のわからぬ姉を想うと、居ても立っても居られない。
「旦那……」
珍しく弱気になって、菊之助は視線で段田にすがりつく。段田は口を尖らせた。
「春芝に任せておけば大丈夫と言ったろう。あれでも彼は、あの大悪魔ルシファーだぞ」
そのルシファーなるものがどれほど強大なのかは存じないが、自身の安眠が係っているのだから、春芝はきっと全力で救い出してくれるだろう。
菊之助は単純だった。不安を残らず拭い去り、刀の刃に闘志を湛える。
段田の飄々とした態度や、いちいち頭にくる物言いは嫌いだ。だが菊之助はいま、この男になら命を預けられる気がする。
(旦那がそういうなら、俺あ、信じるよ)
心の内でそう呟いてやると、段田はちろりと菊之助に一瞥をくれる。
「悪魔を信じた者は、たいていろくな目にあわないよ」
段田に真剣な貌で言われて、菊之助は足元に迫る気配にさえ気づかずに、それでもいいよ、と口を開いた。
その刹那。
「うわっ」
菊之助の視界が反転した。細かで頑丈な黒煙に足首に絡められ、菊之助はあっけなく宙吊りにされた。
「ほらみろ、言わんこっちゃない。本当にすっとこどっこいだなあ」
契約者が捕まったというのに、この悪魔は冷たい。助ける気さえなさそうだ。
(この薄情者め!)
宙吊りにされながらも菊之助は刀の柄を握りしめ、段田を罵倒する。しかし当の段田は聞いて聞かぬふりをしている。
「捕まえたぞ、子供の剣士よ」
菊之助と段田のやり取りが分からないのか、子供侍を捕まえた串刺し公は、すっかり勝った気でいる。黒煙の障壁で守られたヴラドは菊之助を引き寄せ、腰から両刃のツルギを抜くや、捕らえた獲物に向ける。
菊之助はその脆そうなツルギを、えいやっ、と玉鋼の刀で弾く。
「誰が子供だっ」
菊之助が吠えたてる。この期に及んで、この子供侍はまだ足掻こうとしている。しかし、刃の先は串刺し公には届いていない。
そしてついに、菊之助の両腕も黒煙によって束縛された。
「こんなもの」
菊之助は手首を縛るものを引き千切ろうとするが、これは咎人につけられる木製の手枷などよりも遥かに硬い。
「聞け、悪魔」ヴラドが声を張る。
「菊之助を人質に取るつもりか」
段田は呻吟する。だがそんなことは、囚われた側の菊之助にだって理解できる。


