たまたま雇っていた店に盗人が押し入り、菊之助がみね打ちで仕留めようと情けをかけたがため、それに斬りつけられたのである。
 菊の剣の腕は、百合も認めている。十四、十五になる頃には、すでに大人の剣士顔負けの腕であった。
 それでも、一度その刀傷を目の当たりにしてからというもの、百合は菊が剣を扱う仕事を探すのを一切許さなくなった。以来、菊が剣を振るう姿はめっきり見なくなったが、あの黒煙の化け物に出くわした折に、百合は悟っていた。
 菊の腕は、衰えていない。それどころかますます剣さばきに磨きがかかっている。百合に見ているところでは、素振りさえしなかったのに、だ。
 大工の手伝いなどで身に付く技術ではない。やはり菊は、百合に隠れて刀を振るっていたのだ。
 がっかりとする百合だったが、そこで春芝の言葉を想起した。妖花屋。春芝曰く、妖退治専門の口入れ処。そこに出入りする、菊之助。
「あんたまさか、あの子を妖退治に駆り出したのっ⁉」百合が牙を剥く。
「そいつあ、人聞きが悪いぜ」
 春芝は足を速め、出口へと急ぐ。百合は今にも春芝の首を締め付けんばかりの形相であった。
 百合には妖が視えない。だが妖と、それらを視る眼を持つ人は、世の中にはごまんといることは存じている。
(だから、夜遅くに帰ってきたのね!)
 魑魅魍魎が活発に跋扈するのは、主に夜だと聞く。これで辻褄が合った。
「あんた、お菊に無茶させたりなんかしてないでしょうね」
 相手は外見こそ人であるが、やることなすこと、どう見たって化け物である。百合は心底から春芝を疑っているらしかった。
 春芝はくどそうに声を低くした。
「これは俺の見る限りだが、菊之助の野郎は、妖花屋を気に入ってるようだったぞ」
「そんな」百合にはとても信じがたい。
 そんな物騒な仕事を寄越す口入れ処など、百合は自分が菊の立場であれば、二度と来たくない。
 しかし春芝の口調には、嘘をついている風な淀みがなかった。
 強張る百合の様子に、春芝は呆れたような棘のある吐息をついた。
「だいたい。前から思ってたんだが、おめえは菊之助の野郎を餓鬼扱いし過ぎだぜ」
「なんだって?」
「確かに野郎は短気で礼儀のねえ糞餓鬼だけれどよ、野郎は身体も腕っ節も、もう大の男とおんなじだ。守られることにだって、もううんざりしてるはずさ」
 知ったような口を叩かれて、百合はいささか腹が立った。だが、その一方で急所を突かれた思いもあった。
 父を亡くして、姉妹ふたりきりになって、もう子供の菊を守れるのは自分だけとなった。だからこそ、自分一人でも守っていくのだと百合は決心していた。
 が、百合は守る事しかしなかった。そちらのほうに手いっぱいだったのもあるが、なにより、ずっと菊の傍にいたいのが本音だ。
 しかし気がづけば、いつからか菊のほうから、百合から離れようとしていた。それを改めて、百合は知ったのだった。
「じゃあ、あたしは……あの子をどうしてやればよかったのさ」
 底なき穴に投げ捨てるように、百合は虚しく言葉を零した。それを、春芝は聞き逃さなかった。
「そんなもん、守らなきゃいいだろう。野郎が大人になりてえと望むなら、せいぜい、人間の大人の厳しさってものを叩き込んでやんな」
 人に化けただけの怪物のくせに、春芝はあたかも人として生きた経験があるような口ぶりである。
 それからは、百合はしばらく沈黙していた。あまりに強い風圧で髪をくくっていた紐がほどけても、春芝の背で顔を隠しているのみであった。
 そして。鳥居の門をかいくぐり、春芝と百合はようやく不忍池の畔に出た。傍にある無人の茶屋の前には、無造作に攫われた者たちが転がされている。
 春芝はそこへ百合を下すや、その頭を強めに小突いた。
「戦場でめそめそするんじゃねえやい。そういうのは外でやりやがれ」
 言い捨てられ、百合はむむむと眉を顰める。
「ここは外よ」
 蹌踉と立ち上がる百合は、見れば目尻が赤く腫れている。どこか可愛らしい強気な美貌の百合であるが、それに対して春芝は、厳めしそうにしかめっ面を返すだけであった。
「おい、菊之助の姉。おめえ、もうこの鳥居はくぐるなよ。菊之助の野郎が帰ってくるまでだ」
「お菊が、まだ中にいるの?」
 百合は今にも鳥居の中に飛び込まんばかりである。無計画な行動を起こそうとするところは、やはり姉妹なだけあって、菊も百合もよく似ている。
 そんな危なっかしい百合を、春芝は前に立って行く手を阻む。
「中には入るなと言ったろうが。野郎が心配なら、せいぜい仏様やイエス様にでも祈っときな」
 イエス、と言われたところで、百合は切支丹禁令に引っかかる言葉としてしか認識していないので、助けを乞うべき相手かどうかは不明である。それに、仏にすがる、という信憑性のない事をしようとも思わない。ならば、今もっとも頼れる相手は、眼前にいる化け物じみた男しかいない。
「------ちゃんと、うちの放蕩娘を連れ帰ってきとくれよ」
 さっさと鳥居へと舞い戻ろうとする春芝に、百合はどっしりとした言葉を投じる。
「あの子には、あたしがいちど説教たれてやるんだから」
 百合の決意らしきものを孕んだ重みのある声に、春芝は、くっ、と邪な笑みを浮かべた。
「悪魔に希うなんざあ、片腹痛えや」
 春芝は言うなり、再び鳥居の口へと身を放り投げた。
 ***
 ヴラド・ツェペシュ------。
 ツェペシュはルーマニア語で“串刺しにする者”を指す。
 一四〇〇年代のルーマニア中部、トランシルヴァニア地方を治めていたヴラド二世の次男が、このヴラド・ツェペシュ------通称“串刺し公”である。
 王子、とはいうものの、この王子は決して優雅で煌びやかな貴公子ではなく、むしろ無双の暴君であった。
 中央権力を掌握するようになると、領内の貴族を次から次へと打倒し、大帝国から貢物の要求のために使者が送られてくると、それを生きながらに串刺しの刑に処した。さらには攻め入ってきた帝国軍の兵士も悉く串刺しに処し、その死体が刺さった杭ごと、自らの城の周辺に林のように立てて帝国軍に晒したという。
 それだけに止まらず。この王子は自国の貴族さえ同様に処刑し、国の周囲にある村々に攻め入っては、女子供も容赦なく虐殺し、その権威を見せつけたのだった。
 串刺し刑とは本来、キリスト教、イスラム教において重罪を犯した農民を処刑する方法である。しかしこの王子は、独裁的理由で串刺しの刑を行ったことも多々あった。
 当時、串刺しの刑というのは処刑法としても一般的であり、当時の感覚では殊更に残虐なものとは言えない。
 一般的なものであったとしても悍ましい刑法に変わりはないが、ヴラド三世はこの処刑法を好んだ。時には串刺しの刑に処された者の骸を部屋に飾り、そこで宴を開いたほどである。
 異端嗜好の持ち主、としか言いようがないものだった。
 この王子は周囲の国々でも“串刺し公”の名で知られ、吸血鬼ドラキュラの語源にもなっている。
 そんな悪魔のような男だが、一四七六年には大帝国との戦によって戦死したのだった。