菊之助は訳も分からず棒立ちになり、段田を見上げる。
そんな菊之助に、段田は中腰なって、優美な微笑みを浮かべた。
「私と、契約してくれないか?」
「けい、やく?なんだい、そりゃあ」
菊之助が、はてと首を捻る。
「君に協力してやろう。
君が私と契約してくれれば、私は実体を得て戦える。
君の姉上を助けることにも繋がるだろう。
契約者の望みはなんだって叶えてやる。
君が、なにか大きなものを、私にくれるのならねえ」
段田の眼は、爛々としていた。
「大きなもの、とは?」
「心の臓とか」
要は、命を差し出せという事か。
菊之助は複雑な面差しになるが、段田の眼の奥に映った弱々しい自分の顔を見て、菊之助は決断する。
百合の命か己の命か。
とうの昔に、決めていたはずだ。
自分にとってどちらが重いのかを。
「命をくれてやるなんざあ、おやすいご用だ」
菊之助はもう決めていた。
どうせ死にに行く覚悟でいたのだ。
どうせなら、確実に百合が助かる方法をとって死にたい。
それを聞き入れた段田は、そうっと指先で菊之助の首筋をなぞった。
「言ったな。
男に二言はないぞ」
「おう」
すると、途端に激痛が走る。
菊之助は答えた傍から、鋭い痛みにのけぞった。
首筋の動脈から僅かにずれた所の肉に、鋭利で頑丈な細いものが滑り込む。
皮を切り裂き、なにか紋章らしきものを刻み付けている。
「うっ」
呻くが、菊之助は辛抱強く耐えた。
「できたぞ」
段田が血の滴る爪をひと舐めする。
そして女用の手鏡を棚から取り出すや、それで菊之助の首筋を映した。
五芒星を逆さにしたような赤い紋は、血よりも濃厚な紅色であった。
不思議な事に、皮膚を裂いて刻み込んだ紋からは、血が一滴も出ていない。
「段田よ、準備はできたか?」
春芝が問う。
「いいや、もうしばらく」
段田はそう返すや閉眼し、紋を弄る菊之助の額にその唇を当てた。
額を襲った柔らかい感覚に、菊之助は思わず飛び上がる。
「わあ!」
なにするんだよ旦那。
抵抗して腕を振り回す菊之助だったが、そこでふと、瞼の上で何かをひしひしと咀嚼する音を聞いた。
「……旦那?」
額に当てられた唇が上下に動いている。
なにかを、食べているのだろうか?
菊之助が問いかけようとした刹那、段田が菊之助から離れ、ごくり、と喉を鳴らして何かを呑みこんだ。
閉ざされた段田の瞼が、ゆっくりと開いた。
「見つけたぞ」
段田が勝ち誇った。
すると春芝も、指を鳴らして腰を浮かす。
菊之助だけが、わけがわからず阿呆面をかいている。
「行くよ、菊之助」
下駄を鳴らして駈け出そうとする段田の背を、慌てて菊之助が追いかける。
「見つけたって、何を?どこへ行くつもりだ」
「弁天島さ。
さあ早く。
舞踏会に遅れてしまうよ」
*
「ねえ、見てごらんよ」
「あらいい男。
どこへ行くのかしらね」
夜に差し掛かる江戸の大路を走るのは、腰に刀をぶら下げた少年と、股引を穿いた男、そして着流しの男。
面食いの女たちは、道行く三人の男に釘付けだった。
しかし、彼らがあまりにも足早だったので、話しかけるいとまもない。
五つと数えぬ間に、男たちは宵闇へと蕩けていった。
さて、不忍池に到着した一行だったが、そこに敵の根城はなく、大きな池の中心にぽつんと弁天島が浮いているだけであった。
男女の逢瀬として有名な場所だが、怪異の話が出回っているからか客が来ている様子はない。
蟲の鳴き声だって聞こえやしなかった。
春芝は池の畔で水面を覗き込んだ。
そこを段田が悪戯に春芝の後頭部を押し、その顔を水面に叩きつける。
すると水中から泡が湧き、
「てめえ、なにをしやがる」
水を滴らせた春芝が、怒って段田の胸ぐらを掴む。
だが、段田は眉ひとつ動かさず、
「池の中に奴の根城はないよ」
とだけ言った。
「野郎は不忍池にいるんじゃないのか」
「池の中に城があるとでも?
竜宮城じゃあるまいし」
段田が胸を反らすと、歯を噛みあわず春芝をそっちのけにし、そこら一辺をうろついた。
「ここだな」
段田が立ち止った場所は、大口のような鳥居の前だった。
池の畔と弁天島を結ぶ、大橋の入り口に立てられた鳥居である。
「ここに、人が?
無人のなんじゃないのか?」
菊之助は疑問に首を捻るばかりである。
「目で見え、手で触れられる物ばかりが現実とは限らない。
妖や亡霊と同じさ」
段田は鳥居の真ん中に掌を翳すと、脇に抱いた書物を広げて、ぼそぼそとなにか詠唱しだした。
声が小さすぎて菊之助には何を言っているのか分からなかったが、最後に、
「エクセインゴ」
と強く唱えるのが聞こえた。
段田の手が右に振られると、鳥居の先に見えていた弁天島が、ぐにゅん、と歪んだ。
次第に歪んだ光景は鳥居の口の中で渦巻く。
段田が手を下げる。
「旦那……いったい何をしたんだ?」
菊之助は鳥居の口に指を入れてみる。
どろり、と粘質のものがまとわりつく感触がした。
「げっ、気持ちが悪いなあ」
「しのごの言うなら帰りたまえ、子供侍」
言い捨てると、段田は鳥居の口に飛び込んだ。
続いて春芝も、鳥居の渦巻へと躊躇いなく身を投げる。
固まっていた菊之助も腹を決め、鼻をつまんで渦の中へと突進した。
どぷん、と。
沼水のようなものが全身を覆ったが、それは一瞬の事だった。
渦の中から飛び出した菊之助は、そのまま段田にぶつかる。
「いてっ」
菊之助は呻き、瞑っていた目を開ける。
なぜか身体はどこも濡れていなかった。
眼前には、四角の石で造られた壁と、一直線に伸びる通路が広がっていた。
通路の両側には無数の扉が対になって並んでいる。
まるで百足の姿をまねたようである。
「ここが、野郎の城か?」
菊之助の問いに、段田が顎をしゃくる。
すると菊之助は途端に目の色を変えた。
「姉ちゃん、どこだ!
姉ちゃんやーい!」
大声を張り上げて走り出す菊之助だが、そこで風を切る音と共に、いつの間にか菊之助を追い抜いた春芝が前に立ちはだかる。
「焦るんじゃねえよ。
おめえの姉ちゃんも、他の奴と一緒に俺が連れ出してやる」
「なんだって」
「黒煙の野郎に捕まった奴らを全員外に出すのが、俺の安眠を懸けた段田との交換条件よ。
それに悪魔の契約者は、なるべく悪魔の傍にいてやらにゃならねえしな」
どうやら春芝は段田に買収されたらしい。
春芝は先んじて、放たれた嚆矢のように通路を神速で走り去って行った。
凄まじい速さだ。
「私たちも行こう」
段田が悠然と細波の如く走り出す。
菊之助もその後を追った。
この通路は、どこまで伸びているのか見当もつかないくらい長い。
いくら進んでも行き止まりがないのだ。
焦燥感が菊之助から冷静さを奪う。
急がねば。
急がねば。
焦れば焦るほど、この通路は長く感じた。
『もしものときは、身売りしてでも育てるわ』
父が死んでからすぐ将来を気にし始めた百合は、懸念する蓮兵衛の母にそう言っていた。
そんなことさせるもんかと、盗み聞きしていた菊之助は腹の底で怒った。
だからこそ、唯一の得手である剣の腕を磨き、女の身でありながらおなごらしさを捨て、浪人になった。
大切な、大切な肉親。
ただひとりの姉だ。
この身が滅んだとしても、救い出さなくてはならない。
(絶対に、生きて帰さないぞ)
心の中で、勝ち誇って笑う南蛮の男の姿が、怒りの焔で焼き払われる。
百合に何かあったら、首を刎ねるだけでは済まさない。
「極端な性格は君の短所だな」
前方で段田が苦笑した。
「心配せずとも、君の姉上は必ず春芝が連れ出すさ。
なんたって彼の静かな夜が係っているからね。
それにここだけの話、彼は私よりも遥かに強くて頼りになるのだよ。
そして私は、春芝よりもずっと頭が秀でている」
段田は一言多い。
菊之助はしばし口を閉ざしていたが、ふと思い立ったように、こんなことを口走った。
「悪魔は邪な存在だって、旦那は言ってたな」
「それで、なに」
「だから、その、旦那たちは悪魔なのに、どうして俺を助けてくれるんだい?
春芝はともかく、なんでこんなに旦那が協力的なのか、俺には分からない」
段田から答えは返ってこなかったが、代わりに「馬鹿だねえ」と罵り言葉が飛んできた。
「私は妖たちがこの大江戸に戻ってくることを期待して、彼らにとっての邪魔者を排除するのだよ。
君たち人間を助けるのも、私の私利私欲のためさ。
妖は人と生きたほうが様になる。君のような義理人情とやらの塊と一緒にするんじゃないよ」
段田は反吐を吐かんばかりの顔をわざわざ菊之助に見せる。
いつもならばその面が憎たらしくて仕方がないのに、今日はなんだか、顔立ちとは別にして綺麗だった。


