長屋に戻る頃には雨もやみ、菊之助は満を持して、濡れた着物に木綿を当てた。

面妖な事に、木綿が当てられた部分はみるみるうちに水気を失い、着物は驚くほど早く乾いた。


(行くか)
 

袴の後ろ紐に刀を差しこんだ矢先、誰かが長屋の戸を開けた。

------蓮兵衛である。


「おや、菊兄ちゃんだけかよ。
珍しいなあ。
百合姉ちゃんは帰ってきてないのかい」

「おう……」
 

化物に攫われた、とはとても言えず、菊之助は充血した目を細めた。

しかし蓮兵衛は鋭かった。


「なんだ菊兄ちゃん、泣いてたのかよ」
 

菊之助はぎくりとする。

否定しない菊之助を見つめ、蓮兵衛は何食わぬさまで、手にしていた餅を半分よこした。


「いくら百合姉ちゃんの帰りが遅くて腹が減ってても、おっきい娘が泣いちゃいけねえよ。
俺の餅、半分やるから元気出しな」
 

蓮兵衛の手が、小さな餅を菊之助に差し出す。

こんな状況は初めてではない。
 
五年前は、悲しみに打ちひしがれるあまり、幼い蓮兵衛のささやかな心遣いを蔑ろにしてしまったが、今は違う。


「腹が減っては戦はできねえ、ってよくいうものな。
ありがとうよ」
 

勇ましく笑み、菊之助はひしひしと餅を頬張った。


「なんだい、元気じゃないかよ」

「元気になったんだい」
 

餅を呑みこんで、颯爽と長屋を去ろうとする菊之助に、蓮兵衛はいぶかしがり、


「どこにいくんだよ」


と問いかけた。


「姉ちゃんを迎えに行くんだよ。
世の中ってのは、なにかと物騒だからさ」
 

ありきたりな事をぬかして、蓮兵衛の頭をいっそ優しく撫でてやった。


「餅、美味かったよ」