「何か見えるのかい?」
 



段田が問いかけた。


「私には曇り空しか見えないが、君は意味なく空を見てたそがれる趣味でもあったのかい?」
 
いたって普段と変わらぬ語調であった。


「旦那……。
なにを、しに来たんだ」

「さっきの妖の大群を追いかけていたら、そこに君がいただけさ。
雨に降りこめられて濡れるわ、妖は見失うわ、全く散々だったよ」
 

段田はさも悔しげである。


「大嘘つきめ」


菊之助は鼻声を振り絞る。
 
妖のご一行は、菊之助たちが向かおうとしていた方向とは、真逆の場所に逃げて行った。

しかもこの男は、傘も差さないでここに来た。

どう考えても、偶然で菊之助に出くわすなどあり得ない。
 
この男は、呼吸するように嘘を並べる男だ。
 

菊之助は段田の顎を退けようともせず、


「……どけよ」


と、どすを利かせた。
 
あまりにもか細く、弱々しい凄みだった。


「菊之助」

「どけって!」
 

気取られて、菊之助はがむしゃらに叫び、肘で段田を押しのける。

------段田は読心術を巧みに使う。

それを菊之助は覚えていた。

覚えていたが、今の自分の胸中だけは、意地でも悟られたくはなかった。
 
ここで、菊之助は墓穴を掘った。

赤く腫れ上がった頬と目尻が、段田の前に晒される。
 
己の過ちに、菊之助は顔をくっと歪める。


「……邪魔だっ」
 

菊之助は段田を突きはなし、子の方角に足を運ぼうとした。
 
そこで段田が、


「寝不足なのかい。目が赤いぞ」
 
と、気付いているくせにわざと法螺を吹く。
 
菊之助は立ち止ると、毅然を装った。


「雨だよ」

「雨?」

「雨が、目に入って痛むんだ」

 
白々しい嘘をついて、菊之助はあたかも、雨水が目を濡らしたせいでこんな顔になったのだとばかりに毒づいた。


「そうか。雨のせいか」
 
段田はあろうことか納得した。
 
子供の嘘に騙されるほど、段田は阿呆ではない。

むしろ彼は賢い部類の男だろう。
 
段田はきっと、もう何もかも概観しているに違いない。

それについて触れてこないのは、段田のささやかな心遣いか。

もしくは悪魔らしく、人の不幸を面白がって観賞しているのかもしれない。
 
段田は懐から四尺もあろう木綿を取り出し、ふうわりと、それを菊之助の肩に掛けた。

仄かな芳香が、僅かながらに菊之助を鎮める。


「どこへ行くつもりだい?子供侍」
 

段田が問いかけるが、菊之助は返さない。


「剣呑に刀まで持って。
子の方角にお散歩でもしに行くっていうのかい」

「分かってるくせに、口を出すなっ」
 

苛立ちながら、菊之助は喚く。

索漠とした江戸の大路。

菊之助の小さな喚き声は、辛辣を極めた雨の轟音にいともたやすく掻き消された。


(知ってるくせに)


菊之助は内心で繰り返した。

俺がどうして、傘もささずに刀を引っさげて、物騒な貌で子の方角を目指しているのかを。


「いいや、分からないね。私には」
 

お気に入りであろう着流しに雨が浸みてきているのに、段田はそんな事などそっちのけで菊之助を鋭敏な眼で見据えた。


「どうして君が、こんな所でひとりずぶ濡れて、ひとりで異形の伏魔殿に乗り込もうとしているのか。
私はわからない。
君のような大馬鹿の行動は、私には理解しがたいよ」
 

菊之助はかっとなって、段田を藪睨みした。


「全部お見通しなら、黙ってろよっ」
 

菊之助は声を張り上げた。


「そりゃあ、旦那にゃ分からないだろうよ。
不思議な術が使えて、怖いものもなくて。
でも、俺あ、怖いものがあるんだ。
俺あ」
 

本音を押さえきれず、とうとう叫喚と共に、熱を持ったものが次々と溢れて、子供侍の頬や首筋を伝った。


「姉ちゃんがいないのが、怖い。
だから、絶対に、守らなきゃいけないのによぅ……」
 

菊之助は百合を守り抜けなかった。

挙句、敵に一太刀すら浴びせることもかなわず、部様に敗北してしまったのだ。